縛らない「一つ」、囲わない「同じ」

「同じ」と「違う」、ボタンの掛け違い。「違い」の大切さ、その射程は5月17日に書いた。今日は「同じ」の大切さを。前回の補足。蛇足かな。
おなじ光を受けるということ。世界中の星が笑うというと、個々のことみたいだけど、そこでの関係性、或いは一つの笑い。それが今日、私の耳目にふれる世間には、欠けている。それがないと個々の多さは豊かさにならない。多様性が響きあわない。「おなじ」というと縛る同一性を思い、一つというと実体的な一つ、つまり他を排除し多を認めない一を思う。そうすると、「一なる佛さんが世界を」といった時点で漬け物石を頭に載せられたような不自由さを感じるのであろう。佛さんが多様な世界を祝福するといったのは、にんじんがにんじんであるということと離れない。にんじんがにんじん即ち大根が大根、それが同時に成り立つ、つまり関係性として「世界中の星」が同時に成り立つ。という事態として、にんじんがにんじんであるということが佛の祝福なのである。私が私だというアイデンティティーの由来に食い込むと、私は祝福としてある、ということなのだ。