大橋功の「時分の花」考

この春の発見、童謡「ちゅうりっぷ」の「どの花見てもきれいだな」、そしてみすずさんの「みんなちがってみんないい」にスマップの「世界に一つだけの花」、これらのことをとおして語られている事態、見えうる世界、それを何とか言葉にもたらしたい、そしてそれをその如く生きたいというのが私の仕事である。
ついでにそれが流行して目立つ歌の中にもあるだろーけど、むしろ目立たない詩にいくらもあるといいたいのが私の性分だろう。まどさんの詩はメジャーかもしれないけど、しょうじたけしなんてマイナーだよねえ(ぼくが知らないだけかしら)。
スマップと言ったけど、槇原ですね。その詩の由来を耳にしました。
先般、まことの保育大会に参加したという話をしましたが、その時の記念講演、そして大会の白眉は、大橋功という先生の講演「時分の花と自分の花を咲かせる」というものでした。「時分の花」は世阿弥の『風姿花伝』に着想を得たものです。『風姿花伝』とは能という芸の極意が書かれていて、人口に膾炙したフレーズは「初心忘るべからず」。ぼくの好きなのは「秘すれば花なり」8月11日のタイトルにした「老骨に残りし花」。花というと一般に、人生で一番若々しい時を指しますが、大橋先生は「時分の花」に注目します。
3歳には3歳の5歳には5歳の花がある。5歳の時に10歳の花を咲かせようとすることは、咲くべき花を摘み取って無理矢理接ぎ木をするようなことだ。3歳に3歳の花を咲かせた者は20歳には20歳の、70歳には70歳の花を咲かせることができる。3歳の花をしっかり咲かせる、でもそれは枯れる(ここが、妙に新鮮でした。そのつど咲いたら枯れる。連続的発展とは違うわけです。初心とは帰るものではなくあくまで「忘るべからず」であるゆえんですね)、枯れた花を追い求めてちゃだめ。
このような「時分の花」を、発達という観点と、子どもの造形描画という題材をとおして語られた講演はたいへん興味深いものでした。絵を描くという営みにおいて子どもの心に起こってることは、いかほどのものか! その営み(絵をかく営み、それと一つに生起している心の営み)を聞いて受け止める大人がいなかったとき、それはどうなってしまうのか。切なくなりました。そして、前園長の石水先生がおっしゃっていた「聞かないことも暴力だ」という言葉があらためて身に染みたのでした。このいとなみは、単なる「芸術表現」というような分野ではありえない、人間というものの基礎経験に当たる事柄なのだと、初めて思い知ったようなことでありました。
ところで、この大橋先生の『教師をめざす若者たち』(プレジデント社)という本の中に「時分の花」という話も載っていますが、それを読んだある神官さん(だったかな)がそれに打たれて、その話を槇原さんにして、彼がそれに触発されて、あの歌を作ったということらしい。