「虫の夜の星空に浮く地球かな」をめぐって

     虫の夜の星空に浮く地球かな 大峯あきら
以前ブログでも話題に上がり、ぼく自身エッセイ(『花はどこに咲いているか』第3篇)や論文で引いたこともあり、幼稚園で園児と群読したこともある、大峯先生の名句ですが、その解釈を池田晶子さんがしているエッセイが手に入りました(「暮らしの哲学」『サンデー毎日』2006.10.15)。その解釈に対する違和感を述べておきたいと思います。
詩の解釈なんて人それぞれだと言って済ましていられる人には不毛に映る営みでしょう。この句をめぐってした経験が違うのだから、人の経験に違和感を述べるなんてナンセンスと思われる人も多いでしょう。
けれども、池田の経験だとか西元の経験だとか言って、経験に固有名詞をつけて囲いこんでしまうと、経験の現場の真実が見えなくなってしまう。経験とは、世界や世界を超えたものとの関わりのことであって、つまり脱我性を本質とするものだからです。世界と自己とその両者を超えたものとの関わりにおいて、どこで発生している事態であり、どの地点を指し示した言説なのか、そこが問題なのです。
池田さんは言っています。音を聞いている経験を、「私が音を聞いている」などと言語化するのは、主客二元、主語述語の世界観を前提にした「科学的説明」にすぎず、それでは経験そのものの何であるかを言っていることにならない。ある対象に感動したときは、人は対象と一体化していると表現できるが、それでも「言語は常に経験を裏切っている」。こういう話には全く違和感を感じないからこそ違和感のあるところを明確にしておきたいという、ぼくの試みは、「本来の素直な経験」の言語化に関して「言語は常に経験を裏切っている」と言い得る人にとって、ナンセンスではないと思われるのです。