『満月をまって』

「後の月」すなわち名月の翌月十三夜がもうぢきです。「満月をまって」というと連想するのは十五夜前後の月の名前。十四夜が「待宵」、十六夜は「いざよい」、十七夜「立待月」十八夜「居待月」十九夜「寝待月」。古人の、月との関わりが、月を待つこころが、みごと言葉に結晶しています。

満月をまって

満月をまって

                 
でもこの本の原題はBasket Moon。主人公の父親はかごを編むのを生業にしている、いわば山男。舞台は百年ほど前のアメリカ、ニューヨーク州ハドソン近くの山あい。月に一度たまったかごを町へ売りにいくのですが、交通手段をもたない彼は遅くなる帰りを期して、満月の日に出かけることにしています。主人公であり語り手の少年が満月をまちながら成長していく話なのですが、その成長のしるしが具体的。成長するとは、父親が満月の日に町への同行を許すこと。かごに適した木が見分けれれうようになることや、木や風の声が聞こえるようになること。主人公は耳を澄まします。雪が降る音に、氷がとけて水になって流れる音に、つぼみが開く音にも。「それでもまだ、木はなんにもいってくれなかった」。
はじめて下山を許され、よろこびとめづらしさで高鳴る胸はしかし、町の人の自分たちに対する嘲笑で、急降下します。山ザルが知っているのはかごづくりだけ! 
 矜持を踏みにじられた主人公に対して、母親や隣人のいうことがふるっています。
「山の木は私たちのことをわかっている。ハドソンの人がわかってくれなくたってかまわないじゃない」
 「風から学んだ言葉を、音にしてうたいあげるひとがいる。詩を作る人もいる。風は、おれたちには、かごをつくることを教えてくれたんだ。」
「風は見ている。だれを信用できるか、ちゃんと知ってるんだ。」
主人公はやがて風の呼び声を、聞きます。その経験をこう表現します。「風がぼくの名前をよんでくれたんだ」と。名を呼ぶことの不思議にひかれつづけている小生には、聞き逃せない言葉です。(名を呼ぶことの不思議については、拙著に論じてあります。『千と千尋の神隠し』もまさにそれが主題ですね。)
 風は見ているとか、木は知っているとかいうと、すぐ、それは擬人法だとかレトリックだとか詩人の空想だとかいいたがる人がいますが、そんな人は近代博物館の人間中心主義コーナーに眠っていてもらいましょう。
 月夜の表現が卓抜であるバーバラ・クーニーですが、森の細かい描写も見事です。イメージを膨らませてくらます。