池田晶子様へ

「虫の夜の星空に浮く地球かな」という句について、池田晶子女史の解釈を聞いているところです。
この句の面白みは「逆転の構図」だと言います。「虫の音を聴き星空を眺めている私が、虫の音となり星空となる」という逆転を「浮く」が端的に示しているとのこと。主客二元の世界観が我と対象との一体化した経験に逆転することでもある。転じたところ、即ち「本来の世界のありよう」とは、私が虫の音を聴いているのではない−ただ虫が鳴いている−(私が)虫の音として鳴っている、という具合に記述されるべきものであるということです。
このような語り口は、「本来の素直な経験」を「純粋経験」と呼ぶあたりからも、西田幾多郎の『善の研究』を思わせるのですが、これは何も西田哲学を参照してると言いたいわけではありません。西田が記述していることは彼独自の神秘体験だというのではなく、古来多くの人が多くの仕方で、しかしどこか似た言い方で、提示してきたものであって、私にとっても経験的にとりたてて奇異なことではありません。                善の研究 (岩波文庫)
解釈は続きます。「この句がさらに悩ましいのは」(悩ましいそうです)「主客分裂以前の一元的世界」の曖昧な感慨から立ち上がるものがあるところで、それが「地球かな」だというのです。虫の音と星空に一体化したこの私は「確か地上に存在していたはずだ。ところがその眼が突如として、宇宙の真ん中に見開いた。宇宙から地球の私を見た。地球の私を見ているこの眼は、いったい誰の眼、誰なんでしょう」。
ここを読んだ時点で、あらあら、変なこと言い出したなあと思いました。変なことというのは、「主客二元の科学的世界観」ということです。「宇宙から地球の私を見た」ですって。この方、宇宙は地球の外のあると思ってらっしゃるの? それは、物事を外におうという、自我意識のはたらきの典型で、それが主客二元の基礎ぢゃないですか。「宇宙から私を見てる私」と「地球の私」の二つをわけるけれど、宇宙の「真ん中」に眼が見開いたら両者は一つになるはずである。むしろ、両者の「分裂以前」を「真ん中」と言うべきか。そうでなければ、「宇宙から私を見てる私」と「地球の私」の二つをわけて語れものがあるとしたら「幽体離脱」体験くらいでしょう。
これでは「主客分裂以前の本来の世界」なんて言ってたことも、地上に存在してる私が空想の中で浮き足立って星空と一体化してるなんて曖昧な感慨を抱いていたかのようです。そうか、池田さんこそが「曖昧な感慨」にふけっていたのか(まあ、「吟醸冷酒でイッパイやりながら」とあるので、酔っ払ってるのかもしれませんけど)。だから「再び立ち上がる」必要が出てくるんだ。一体化は地に足が着くことだ。「私」なんていう空想を手放さないかぎり、足は地に着かないのだ。頭で地に立とうとする(目で見ようとする)からだ。地に足がつく、つまり地球と一体化するのだ。だから浮く。「浮く」「地球」の両方が「かな」なのであって、星空も宇宙も空想の彼方にあるのではなく「浮く地球かな」としてあるのですよ!(語り口、ちょっとマネ)
どうやら、池田さんは「虫の夜の」「星空に浮く」「地球かな」と文字の順を追って(目で見て)、ていねいにも一句一句文字的に解釈しているようです。しかし、「虫の夜の」と言ってそこに一呼吸はあり得ても、「星空に浮く」と「地球かな」との間には隙がなく、両者は一息で「星空に浮く地球かな」なのです。