見ることの主体は何者か

そのあと段落ははもう、「私」だらけ。「見る」は必ず私によって行われる。世界とは私によって見られているもの以外のものではあり得ない。(こういうことは「主客の二元の世界観」でなければ何なのでしょう)。
見るとは必ず私が見るのだから、宇宙の眼も必ず私だ、という帰結。「私」とか「見る」とかをそう前提すれば、そういう話にならざるをえないですね。ここで「ああ、何という悩ましいことか」なのだそうです。        

中学生の教科書―死を想え

中学生の教科書―死を想え

池田さんの話はあるシンポジウムで講演を聞いたこと、『中学生の教科書』」という本で読んだこと位しかありませんが、その印象は、私というものの語り出し方、落とし方がデカルト的であるということ。このエッセイでも「私」へのこだわりはそれを思わせるもので、まあ、デカルトだろうが西田だろうがそれはどうでもよくて、この「私」なるものが宇宙や世界と見る−見られる関係にあるというのは、自己意識における、自己関係や自己の二重化に他ならず、そんなとこで「悩ましい」などと慨嘆されても、自己意識の自縄自縛のなかでは、そりゃ悩ましいわなあ、と思うほかなくなります。(ちなみに、後半のここは「見る」についての語り、前半は「聴く」での語り、そこに位相の違いさえ見れることは偶然ではないでしょうね。ご本人は気づかれてるかどうか分かりませんが)。
見るということの現場には、ほんとに「私」がいるのか。純粋経験というのなら、西田は「見るものなくして見る」と言います。ここでぬけるんです。池田さんには「見るものなくして見る」ということが不在のようです。似たようなことは言われてはいます。全宇宙をも見晴らす眼(これも私の眼)は、見ているこの眼だけは見ることができない、と。でも、ここでもぬけてなさそうです。「これはもう、どうしてもできないのですよ!」というあたり、池田晶子は高踏的だとか鼻持ちならないとかいう評判が出てしまうもととなるニュアンスがありますね。何かを悟ってるものが説教臭さを漂わせて打ってる感嘆符。
見ることができない、その当体が見てる。そこをなぜ私と呼ぶ必要があるのか。
それで、「悩ましい」と言っても、彼女の脳みそが揺れている悩ましさであって、存在の悩ましさではない、と言ったら口が滑ったことになりましょうか。