見ることの主体は何者か
そのあと段落ははもう、「私」だらけ。「見る」は必ず私によって行われる。世界とは私によって見られているもの以外のものではあり得ない。(こういうことは「主客の二元の世界観」でなければ何なのでしょう)。
見るとは必ず私が見るのだから、宇宙の眼も必ず私だ、という帰結。「私」とか「見る」とかをそう前提すれば、そういう話にならざるをえないですね。ここで「ああ、何という悩ましいことか」なのだそうです。
- 作者: 島田雅彦
- 出版社/メーカー: 四谷ラウンド
- 発売日: 1999/12/01
- メディア: 単行本
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見るということの現場には、ほんとに「私」がいるのか。純粋経験というのなら、西田は「見るものなくして見る」と言います。ここでぬけるんです。池田さんには「見るものなくして見る」ということが不在のようです。似たようなことは言われてはいます。全宇宙をも見晴らす眼(これも私の眼)は、見ているこの眼だけは見ることができない、と。でも、ここでもぬけてなさそうです。「これはもう、どうしてもできないのですよ!」というあたり、池田晶子は高踏的だとか鼻持ちならないとかいう評判が出てしまうもととなるニュアンスがありますね。何かを悟ってるものが説教臭さを漂わせて打ってる感嘆符。
見ることができない、その当体が見てる。そこをなぜ私と呼ぶ必要があるのか。
それで、「悩ましい」と言っても、彼女の脳みそが揺れている悩ましさであって、存在の悩ましさではない、と言ったら口が滑ったことになりましょうか。