飛び散るレモン汁か上品なレモンジュースか

今日で後期の授業が終わりました。例によってまとめることはできませんでした。人を「まとめる」ことがよいことであるという前提をもっているのが日本教徒だという話をしたからといって、まとめが下手なことの言い訳にはならない。それでも最後なので、出し切ったという感じでへとへとです。
あたかもレモンをぎゅっと絞って汁が飛び散ったような話でしたでしょう?それで、帰りの電車では絞りきって水分のなくなったつぶれレモンの姿になっているので、あんまり知った人とは会いたくないものですね。でも授業というのは、あらかじめ絞っておいたレモン汁を砂糖や何かで味を調整してジュースとして出すというのが本当なのかもしれません。受講者としては、飲みやすいし顔に汁が飛び散ることもないから面目つぶされることもないし。
奈良大近くの絵本屋さんで「物語の生まれるとき」というようなタイトルの講演があるようですが、それに準えていえば、授業は言葉の生まれる時、その現場。ぼくはそうしたかったし、その願いが思わず叶ったことも少なからずありました。ことに、言葉をその母胎と共に考えることを課題とする授業にとっては、この現場性・現在性は不可欠なのです。
とはいえ、それがために、たいそう聞きにくかったであろう授業を受講してくださった皆さん、ありがとうございました。