岡亮二先生を偲んで

大行者、則称無碍光如来名(『顯浄土真実行文類二』
岡亮二先生が浄土に生まれてさとりを開かれ、仏陀になられた。ぼくは今明らかに先生の死と向き合おうとしていない。死から目を背けるという言い回しは、深浅強弱の差はあれ日々死を思いながら生きている自負をもっているがために、否定的に使ってきた。いま、死から目を背けることはいかにたやすいことであるか、よくわかる。
今から15年ほど前、修士課程の時、先生の『教行信証』の講義で「獲信の構造」の話を一年間聞いた。善悪無記であるはずの宗教経験の現場にどうして悪という規定をもちこむのかが腑に落ちずよく質問もした。ぼくは哲学専攻だったが、龍谷大学には「真宗学」という奇妙な学科がある。浄土真宗を学問的に解明しようという分野であると一応は言えるが、例えば「仏教学」や「神学(ある成立宗教の護教を目的とした知性の行使)」と違い、歴史的な自己規定がはっきりしておらず、そもそも学問の名を冠することができるかも疑わしい。江戸時代あたりにとっくに出来上がってしまっている枠組みを前提にしながら、そのなかで概念操作をしたり重箱の隅をつついたりする営みだと言えば酷評すぎるであろうか。岡先生も「行信論」などという真宗学の基本問題を長年研究された人なので、大まかに見れば蛸壺の中の人に見える。あたかも死ぬことと真剣に向き合わないことがたやすいように、親鸞の宗教経験や宗教思想を概念化して操作するうちに親鸞の宗教経験を素通りしてしまうのはたやすいこととなる。問いがなくなる。岡先生はそういう弊に陥らなかった稀な人であると思われる。
目を見張る知性があるとか、天才的な直観があるとか、語り口が魅力的だとか、いうことでは全くない。むしろ書かれたことや論の組み立てや例の挙げ方、現代世界の把握の仕方など、稚拙に足を突っ込みそうなほど愚直なまでの語りで、いちいちご自分で考えておられる事がうかがえる。どこかの誰かのご高説を簡単に引用して済ませたり、博識で煙に巻いたりしない。だからこその、努力と真摯と真理への尽きない要求が横溢して、そこにぼくは打たれもするし、魅力も感じる。大学院で講義を受けたときは、ぼく自身が「宗教的要求」について問題を感じていたが、最近ではその問題を実際に生きる生き証人のように先生を感じていた。多分最後の著作となった『親鸞の念仏』(法蔵館2005年)から引こう。
               親鸞の念仏
「本願を求め、念仏の真実を聞く。その求めそのものをなくさないことが、浄土真宗においていちばん大切なことになります。」(p.133)
求めている人からは問いが出てくる。「念仏とは何か、阿弥陀仏と関わろうするということはどういうことかということを問わなければ、これはもう宗教として、教えもなにも成り立たなくなってしまいます。」(p.144)
「なぜ宗教に関心をもたないことが間違っているのか。なぜ仏教でなければならないのか、その中でなぜ浄土真宗か、ということを本当の意味で問い続け、求め続けねばならない。この求めがなければ、浄土真宗は宗教ではなくなると思います。」(p.132)
「宗教的要求なしに宗教の本質的理解はあり得ない」という鉄則に鑑みるなら、先生は宗教の本質的理解者であった。その理解は単なる知的理解ではあり得ず体得であり、信心という仕方で開かれる智慧にもとづく理解である。
真理に関わって生きるものが帯びる熱さが先生にはいつもあった。俗な話の中にも宗教的真理が垣間見えるような話をする人を私は知っているが、先生の世間話は単なる俗な話だった。でも、どんなくだらない話の最中でも、「親鸞」と一言口走ろうものなら、別人のように真剣で情熱的になられた。
岡先生が博士になられたことは大変意味のあることだったはずである。大学で学問としてなされるべき真宗学は、たえず教団組織が抱えている教学の階層秩序に呑まれて、その地歩の独立を保てていないからである。伝統教学を飛び出して新たな立場を築こうとしたのが、信楽先生や岡先生だったようである。ところが昨今、若い人が二人の先人が切り開いた路をあまり歩もうとせず、保守的な路に安易にもどっているようである。「その二先生の業績は見るべきものがあったが、行き過ぎもあった。伝統とのバランスを取れる位置に後の世代の我々はいる。」そんな事を言う人を私は信用しない。相当の気概や反骨精神や真理へ情熱がなければ、長いものに巻かれるだけである。伝統教学に連なり、宗学の階層に属することで獲られる権威や利益は少なくないはずである(岡先生はその権益に与っていない)。内実の伴わない権威を戴く権威主義の弊害は計り知れない。
多分若い人も含めて真宗学徒には、この気概が欠けている(真宗学徒といって十把一絡げにしやがって。俺はそんな中傷はうけない! とクレームを付ける人が出てくれるといいのですが)。
ぼくは、真宗学を研究したわけでもなく、親鸞思想を広く知るわけでもないが、友人が岡ゼミだったこともあって、夜な夜なその彼が代弁する岡先生の親鸞理解と議論を重ねてきたので、その影響は深く染みこんでいる。たとえば冒頭の一句の受け止め方である。
先生の話に疑問もたくさん抱いた。例えば、凡夫だからわからないというふうな言い方をよくされたが、むしろ分からないのを凡夫というと捉えるべきだと思った。これこれのかぎりにおいて凡夫だ、そうでない状況ではそのかぎりではない。それが、実体否定である縁起という把握に近いはずだ。そうでなければ煩悩即菩提、生死即涅槃なんてありえない等々。それはさておき、著作からいくつか先生の言葉を聞こう。
親鸞聖人の教えの特徴は何でしょうか。それは私たちは悪人であるという教えではありません。今日の浄土真宗は、私たちは悪人だと教え、私たちも頭から、自分は悪人だと思っているのですが、それは、親鸞聖人の教えから言えば間違っていると思います。・・・親鸞聖人は私たちに、お前は自分を善人としか思っていないぞ、と教えられている点が、ことに重要なのです。」(p.40)
「他から念仏をいただき、その念仏を他に施す。ここに浄土真宗仏道があるのです。自利利他ではなくて、他利利他になるのです。」(p.241)
浄土真宗の教えの最も深い点は何か。自らの証果において、他利利他の深義がはっきりとわかるということです。」(同)
浄土真宗と聞くと宗派の名前だと考えて、俺にはカンケーないとおもってしまうとしたら、もったいない。永遠のいのちについての本当の教えと受けとめれたら、頭に炎が燃えていることに気づくかもしれないのに。他利利他という徹底した立場が出たところで、宗教的転回を含んだ文章を。
「自分の行為が自力とか他力とか、祈る必要があるか、ないか、そのような人間のはからいの心は、とりあえず全部捨ててしまったらいいのです。どうせ私たちはくだらない心しか持っていないからです。だから、くだらない心のままでいいのです。」(p.132)
繰り返すが「どうせ私たちはくだらない心しか持っていないからです。だから、くだらない心のままでいいのです。」ここが見事! この「だから」の体得が真宗的生き方の極意であろう。くだらない心しか持ってないとは否定的な事柄である。くだらない心のままでいいとは肯定表現である。しかしこれは居直りでは決してない。くだらない心しか持っていないことは断じて肯定的には考えられない。みじめで悲惨で救いがない。これは強調しても強調しすぎることがないくらいの事柄であり、これは決してゆるがせにされない。したがって「だから」は人間そういう者だから仕方ないという日本教徒的アキラメでは決してあり得ない。絶対に否定されるべきことが、なぜかそのまま肯定されている。しかも「だから」という仕方でである。ここに自己否定の徹底と肯定の由来とが露わになっている。居直りの肯定とは0度と360度のちがいで、その一回転があんまりに早すぎて目にとまらないほどであり、当たり前のように語っている目立たない言い回しに、岡先生がこの「だから」を言いうる宗教的境地におられることがうかがい知れる。
「獲信の念仏者は、獲信後、その念仏の真実を語り続けることになる。・・・したがって、静的な清浄なる心で、嬉しい嬉しいと念仏を喜んでいる暇は、獲信の念仏者にはない。」(p.239)にならっていえば、岡先生は浄土に生まれて仏になった。仏は浄土でやすんでいる暇はない。衆生救済のため、凡夫のぼくの口をこじ開け語らしめるという仕方で働いていらっしゃるということでしょう。