子どもの言葉(2)・透明なものとは

「硝子は透明ぢゃないよ。なんかが映るもん。」突然息子が言い出す。ほーっと思って、すぐ放射線のことが頭をよぎる。というのも、原発事故隠しの新聞記事を見ていたら彼に説明を求められて、「原発」と言ったら、爆弾?と聞き返してきたので、原子の説明をして爆弾と発電の話をしていた後だったから。感心している私をとおりぬけて、話は続く。
「あと、触ったら固い。透明だと触ったら感じない。透明って色ぢゃないよ。だって人間には見えないもん。」視覚的に、色や光やらがうつるということを以て、透明でないことを考え、次いで触覚的にも透明を考えているわけだ。見えない、さわれないという規定が出たので、聞いてみた。ぢゃあ透明なものってなあに? 「無いよ。」
「人間には」見えない、「無い」等のことをもう一つ突っ込んで問うならば、彼の答はたぶん仏さまにいたることが予想されたので、あえてピリオドを打たせるような問いは呑み込んだ。彼の透明をめぐるこの思惟は、空間、場所、無、真空等をめぐる西洋人の古典的な、あるいは近世的な、議論に突入している。
「透明なものはこの世には無い」。そういう無がある。しかし、無が有るわけではない。有るなら、無ではない。その透明はこの世にはない、とは、その透明はこの世ではない、とも言える。あるいは、この世には「無い」という仕方で澄み渡っている。そういう透きとほったものを東洋人は古来、虚空と呼んでいる。その透明は彼岸と此岸をもとおりぬけている。