感じる知性・考える感性

朝、庭の畑のなすびを見て息子がいう。アリがちゃんとついている。この葉っぱはテントウムシが食べた。だからアリを付けておいたのだと。アリがテントウムシを食べるのかと聞いたら、そうではなくて逃げていくのだという。だからテントウムシがいなくなったのだとのこと。そう! この発想をすれば農毒は要らなくなるのだ。
玄関に入ると今度はおたまじゃくしの話。後足が生え、頭が四角くなってき、前足も生えだし、日に日に姿を変えてゆくことについての語りで、彼がいかに毎日毎日見ているかがわかる。その変容ぶりをちょっとした驚きと興奮のこもった声で、かく語りき。
魚類が両生類になった時みたいだ!
彼は図鑑マニアで、ずーっと図鑑を眺めて飽きることがない。そして色んな動物、虫、恐竜等々の名前や形態をよく覚える。体つきを形態模写する。図鑑で説明される性質の違いとか棲息地とか、はたまた何々目とか何科とかまで、止めどなく語る。さっきのアリとテントウムシの話でも、たんなるテントウムシではなく何々テントウ、○○アリは葉につかなかったけど××アリはついたと言っていた。ぢゃあ、家の中で本ばっか見てるのかというとそうではなく、庭で一日中でも虫取をしている。捕まえたカナヘビと何時間でも遊んでいて、お陰で妹たちもカナヘビを顔に付けてよろこんでいる。外に出れないとすぐストレスがたまる。
彼は生物進化ということを、図鑑の系統樹などをみているからある程度は知っているだろう。しかし知識で終わらない。「個体発生は系統発生を繰り返す」というテーゼが、眼前のおたまじゃくしに感じられている。知識が感性まで降りてきている。あるいは、感性が考えている。ほんとうに、あるいは具体的にものを考えるとはこういうことであろう。