木下桂さんの講演後の想念

先週の土曜日にうっとこの幼稚園で講演会をした。講師は木下桂(きのしたけい)さん。日米を股にかけサッカーのプレーとコーチをしている人である。「日本で育つもの、アメリカで育つもの」という題をつけさせてもらった。一応は氏のサッカー人生の話なのだが、単にサッカーの話ではなく、すこぶる示唆的だった。大変前向きな方で、ぼく自身も超がつくくらい前向きだと自負しているが、ただ彼はアメリカ的な肯定思考であって、否定思考のぼくはすぐにしっくりこないところがあって、わかろうとするけれどいつまでも残るものがあって、とはいえ、その正体が自己執着による他者受容不可である可能性がある以上、これも否定のターゲットだ。人の話を聞くのはだからおもしろい。それから木下さんは一方でアメリカ的な指導法の合理性や効果を知り十分身につけたうえで、他方で初動負荷理論に没頭したり古武術甲野善紀さんの話を聞きにいったりするあたり、とっても興味をそそられる人なのである。
人間には無限の可能性がある。人間はロクなもんぢゃない、何しでかすかわからない危ういものだ。この両面をぼくは語る。字面を見ると矛盾するようであるが、前者があるから後者も引き立つとも言えるし、後者だからこそ前者がその救いになるとも言える。木下さんの講演では、前者に定位していて、後者はどうなるか気になるところである。というのも、両極端を走るというのが、彼とぼくの同意事項でもあるから。
アメリカの「ほめて伸ばす」やり方、肯定的に物事をとらえ、表現することの効用については、驚くような話を聞かせてもらった。徹底してるとおもった。スポーツにおける、日本の「体育会系」のしごき的やりかた、みんなで走ったりするところに現れるような集団優位的・個は二の次的トレーニングや連帯責任的発想、やたらいばったりどなったりする指導者等々。これらの日本的な悪弊とさえいえるやり方と、アメリカのやり方は相当な距たりがあるなあと痛感した。日本にいながらにして異文化を感じさせてもらえて、よかった。「ほめる」っていうのは単なる方法ではなくて、ものの見方や人間観に根を張っていることがわかる。だから、ほめて伸ばすなんてことは今どき子育てではよく言われているにも拘わらずなかなかできないでいるのであろう。その証左は、今の子どもたちに「自己肯定感」が欠如してるとか「自尊感情」が育っていないとかいわれる事態である。文化的な複合性を持つから「ほめる」とこだけ引っ張ってきても付け焼き刃になるのである。
とにかくいいとこ探してほめるのは、その子の可能性を信じているがためであろう。可能性へむかう駆動力は、他人からの押しつけではあり得ず、自発性や意欲である。「好きこそものの上手なれ」なのである。自発性が十分羽を伸ばすのは、失敗が許される雰囲気である。結果はどうあれ、それに向かった意欲こそが尊ばれるとのことである。その能動性が肯定される状況で、自由な気概が育ち、その自由な行為の結果を自ら負う責任感もおのづと伴なってくる。失敗したら責められる、責められないように先回りして言い訳を考えたり人を責めたりする、そういうセンスが日本の責任感にあるから、責任感が強い人というのもあやしいものである、ということをぼくはこの数年でやっと知った。そんな責任は自由とセットになるものではないし、むしろ自由をひしゃげさせるものである。人に責められるからやらないとか、人に言われたからやるとかいう、自発性と反対の行為を産み出す。
意欲、自発性、自主性、主体性、自由、自己決定、これら一連のほぼ同じ事柄が大切にされるのは、わたしというもののわたし性だからである。それは内面性といってもいいかもしれない。ぼくは、無我が大事だと思い、人にも伝えながら生きているが、無我と言うためにも私(我)は大切だ。なぜなら、無我といっても無我の自覚だからである。
自発性を内面性といったが、それは人という生き物の周辺領域ではなく中心領域の謂いである。もっといえば、不可対象化領域。そこへは、さしあたって私の能動性に収斂することで躍入する。そうして場としての私が定まる。私というポイントのうえに実体として積まれた「私」をめがけて否定が発動する。その否定が自覚だ。
これが、否定的人間が自分とは違う肯定的発想を肯定するしかたである。つまり我は破壊さるべくあってこそ、肯定される。ね、底知れないほど前向きでしょ?
木下さんの主催するAJサッカークラブのHPはこちら。http://www.ajsoccer.com/
自己肯定的発想を批判するのは拙著p.115