「虚しい」のに「尊い」とは「あつかましい」

この春、岐阜の某高校で講演をさせてもらった時を含め、しきりに言っていたのは「虚しいいのちだ」ということ。むろんそれは「尊い命への」アンチという面を持つ。
尊いいのちを大切に。」ということの、何が問題なのか。
1.なぜいのちが尊いのかは問われない。前提にしているだけ。つまり定かでない、根拠がない。
2.実感がない。つまりいのちを語る言葉にいのちがない。だから、「尊いいのち」とかなんとか形容詞があらかじめ付着している。いのちに打たれる現場は、いのち!であって、こっちの形容や判断はする余地がない。
実感が訪れる主要な場面である、生老病死の現場をわれわれの社会は、自らの外に隔離して、専門家に外部委託してしまった。いのちとよばれる龍のような大きないきものは、その尖端をみなければ全体像がわからない。尖端を見れないような、実感が生じないような社会をつくってその中で、おおきなものの中間のごく一部分である「健康に生きている」ところだけをみていのちとかなんとか言っている。
3.いのちをそのような生きているところだけの部分だけで捉えるから、当然死は排除しているので、「いのちを大切に」というスローガンにはちっとも死の影が射していない。「かけがえのないいのち」とは、「たったひとつのいのち」であり、それが含意しているのは「一回きりの人生」であり「死んだらおしまい」である。そうすると、生きているということがそれだけでいいと思いこむようになるようである。生活が便利で快適になったからであろうか。結局、生きているときが花であり、死んだらおしまいというのが前提である。いつまでも生きていたい、死にたくない、という心情がなぜか「尊いいのち」に化ける。「生きているだけでいい」ということがどういう訳か「尊い」と規定されるのである。生きているだけでいいといっても、実は生の全面享受などではなく(そうであれば死の享受も可能だからだ)、都合のいい注文がつく。健康で、長生き。「死は忌むべきこと、生は結構なこと」は言うまでもない大前提である。そうなるともはや「いのちが一番大切」なんてこともいわずもがなになって、果ては「健康第一」なのである。
4.それはかつて、いのちを惜しむことと言われたはずだ。いいかえると、いのちへの執着である。執着から脱却するのが仏教者のつとめであるはずであるが、「いのちが大切なんて言ってるのはいのちへの執着ですね」と、新幹線で隣に座ったありがたそうな初老のお坊さんに聞いても、ぽかんとするばかり。
5.むろん「尊いいのちを大切に」と言われているいのちは自分という「かけがえのない」個体のいのちである。死によってケリを付けられるまでの「一度だけの」人生。その生は終わるのが事実である。虚しい。20年が100年になったからって虚しさは消えるようなものぢゃない。その虚しさに慄然として、若きゴータマ・シッダルタはいても立ってもいられなくなって家を出たはずである。にもかかわらず、「虚しいいのち」であると、それを本来言うべきはずの僧侶に向かって同意を求めても、頭に?がついている。
6.虚しいいのちであることを忘れると、貪るいのちになる。もっと長生きしたい、もっと食べたい、そうして必要以上のものを世界中からかき集めて便利で快適な暮らしをしている。その貪りが地球環境問題まで引き起こしている。貪り度は相当高い、もはやあつかましいいのちである。「あつかましいいのち」をあつかましいとも思わず、あろうことか尊いと規定する。
  いのちといって個体のいのちしか思い浮かばない人間が、それを尊いというなら、個の生存が尊いとでも言いたいのか、具体的言えば、私が尊いってことか。まさか。そこまであつかましいとは。

要するに、あんまりものを考えていないということでしょうかね。考えてないけど十分感じているというのでもないことは明らかだし、なんか言ってみただけ、かな。いのちというこの何より大事なものを考えないなんて。考えるなら、その真理にそぐうように考えないと、せっかく私どもにおいて、生命が自覚的生命になる機会を与えられているのに。
いのちを大切にというスローガンがいのちを見えなくし、いのちに至る道をを塞いでいる。いのちを閉じ込めている個体性を脱して、いわばその裏に回って、個体性を(つまり私を)可能にしているいのちに達したなら、はじめてそこで尊いと言えるのである。多様な生命体を生命体たらしめている、たったひとつの生命のことですよ。