小瓶

京都時代、講義時間中いつも小瓶を机上においていた。九十分の授業は途中でのどを潤す必要がある。当時はけっこうなエコロジストだったこともあり、ペットボトルラッパ飲みはしたくない。美しくないし。それに、がぶがぶ水分補給したいんではなく、ほんと潤したいだけなのだから量はいらない。スーツの胸ポケットにはいるくらいがベスト。ということで、いろんな小瓶を駆使した。鳥取から通うようになって、なぜかあまり使わなくなった。最後に使っていたのはこの写真。もと、お酒が入ってたもの。ギリシャかどっかのおみやげだったかなあ。

ところがこの、授業中に飲む習慣、学生さんがやけに気になったようで、先日のブログのコメントにもあったように、あらぬうわさになったら困るなあ。試験の答案でも「あの飲み物は何ですか」と聞いてくる。以前は「あの瓶の中のものを飲んだ瞬間ぶるぶるって震えてましたよ。何なんですか、中身は!」などと迫られたこともある。学校に着いてから水道で(しかも便所などが多い)水入れてるだけなんだけどね。訊かれたら、「ただの水」と答えてたと思うけど、「水は水に非ずして水である」という「即非の論理」を自覚的に生きようとしている者としては「魔法の水」などと答えてしまって、疑惑を深めちゃったりしたかも。だってほんとだよ。たとえば、水の循環の話なんかしてるときに、大きな水が動くんだ。それが身に流入してくるんだよ!
でも、断言しておきますが、お酒ぢゃないですよ! 講義はシラフぢゃないとできやしません。酔っ払ってる場合ぢゃないよ。真理に酔うことはゆるされるでしょうけどね。