感受的思索

前期、「生老病死の感受的思索」という講義をした。そこで「感受的思索」という言葉をでっち上げた。感受というところは、「感性」でも「感覚」でもよさそうだが若干、意にそぐわない。
ぼく自身、高校生や大学のある時期までは、感性がすべてみたいなこと漠然と思っていて、でもそれは深い思索と、それによって堰を切られて押し寄せるリアリティーの前にはひとたまりもなく崩れていくという痛烈な経験をしている。それと同時に、小理屈を際限なくこねくり回すことを以て「哲学デゴザイマス」という顔をしている人もたくさん知っている。直観がないから、平板な議論がとどまることがない。そんなんで僕は哲学研究室という場所居心地が悪く、当番の時以外は寄りつかなかった。
僕の講義を受けた学生さんが感想としてよく、考えることより感じることが大切なんですねと書いてくる。あんまりそんなこと言った覚えはない。感じることは大切だし、考えることも大切だ。ただ、感じることを出発点にもたない考えは大したものにならないということは強調しているにすぎない。
感じるところは世界との接点。そこで思考が世界への窓をもちながら、たえず思考の部屋に世界を流入させ、それで満たしているかどうかが問題なのだ。世界が考えるということである。
また新学期がはじまった。いつまで迎えられるかわからない新学期が。そのつど、たのしみ。そして緊張。