名前が変わって変わるものとは

うちの幼稚園の先生が結婚するにあたり名前が変わった。明日から名前が変わるということをクラスの子どもたちに告げた、その翌日のこと。
子どもたちの様子が何だか違うという。遠巻きにその先生を伺うように見ている。にこにこしてるけど避けていく。ドアの後ろから顔半分のぞかせて見ている等々。人が変わらないのに名前が変わるのが不思議
といったふう。
名は体を表すという。名が変わるというのは、そのもの自体も変わったことの表徴のはずである。何が変わったのか。結婚という変化はどういう変化か。どこでの、どこに成り立つ、どういう次元での、変化なのか。(「結婚論」に行きそうだが、そんな気はさらさら無い。)
逆に、子どもにとって不可解であるということは、子どもの生きている世界・次元がどういうものかが照らされるであろうし、ほんとうは至極もっともな不可解を当然のように不可解に思える子どもの鋭敏さでもあろう。大人は、結婚して名前が変わるということを知ってしまっていて、当たり前と思うから何の不思議も感じられないのだが。いつもの、自明性の暗がりだ。
やはり、今でも、名前は不思議な力をもっている。