死者への手紙

幼稚園で10年以上もくらした茶色のちゃぼ“ちゃちゃ”ちゃんが26日夕方、もはや目を開けることがなくなった。
死んでしまったのであろう。彼女の居場所は、あるいは行った処は、どこなのか。それを、先回のブログに挙げた村上鬼城の句にならって言いたいと思う。鬼城に見定められたその場所とは、「生死の外」。単に死んだのではない。「生死の外」であるから《死の外》である。死をも死んだといったらよいだろうか。死んだその日が誕生日という発想が「生死」を打ち崩したなら、そこである。彼女はこの世的な緑のものを口から出すことによって、この世の生に死んだことを告げた。しかしそれに先立って、生きながらにして《生の外》に安らっていた。不動なる場所にうずくまることで。
「生と死」という枠組みで発想する習慣が抜きがたいので、その枠組みは発想ではなく存在の秩序のように思い込んでいる。人にとって自明なそれは、生きとし生けるものにみな自明なのではない。その意味で、「死」ぬのは我々人間のみだとも言えるはずである。
夜帰宅すると、子どもらがみな手紙を書いている。“ちゃちゃ”ちゃん宛である。下の娘どもは字が書けないが、ひげのようなちょろちょろした線を書いた手紙を読んでくれる。「チャチャチャンサミシイデス」と。上の娘はちゃんとした字と絵で手紙を書いている。長男は経典の言葉を写している。死者に対して真面目にやっているこれらのいとなみも、案外「生死の外」的感性なのかも知れない。
死者に手紙を届けてくれる郵便屋さんを、あなたは知っていますか。死者に語りかけたくなったら、どうしたらいいですか。
ちゃぼの居場所を考えることは、ちゃぼのことではない。私のこと、あなたのことを言っているのだ。