青空授業

前回、言葉をめぐる講義は言霊の話を通って、言葉がそれによって言葉たりうるところの象徴性・抽象性と、身体に根を張った具体性という、振幅を見た上で、「言葉とは、象徴性の衣をまとった息吹である」という規定まで辿り着きました。
そこで次なる絞り込みは、息吹と言うけれど、その息の根はどこにある!? それはいかなるものか!?という問い。その答えが、体で感じられるような、感性にまで降り立つような、示し方をしたいと思います。そのため外でやりますので、温かくしてお越し下さい。
以上が12月19日3時間目の講義の前振りでした。
外でやりますというと、その場に辿り着くまで三割くらいの学生は消えるのですが、今回はあんまり減らなかったなあ。170人ほどの大人数ではやりにくい内容でしたが、めげずに挑戦しました。
その内容とは、ぼくが講師をはじめた最初の講義「宗教性に目覚めるために」以来一貫している企図の、中核です。“空−風−いのち”の体認と言ってもいい。拙著の第三篇「空のありか」というエッセイにも書いてあることなので、どうぞご覧下さい。そのエッセイは、二十世紀最深の宗教哲学西谷啓治の言葉の中で、私が最も好きな言葉「青空は目に見える永遠である」から、話をはじめています。明らかに仏教的なセンスが滲んでいると思うのですが、あれを書かせる経験を導いた呼び水は「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」というイエスの言葉だったのです。
それはさておき、講義?(といえるかどうか)の内容は、以下の受講者の感想によって、ご想像下さい。



・ 授業を外で、しかもねころんだりするのは初めてだったので、新鮮だった。気持ちよかった。
・ 寝るなら場所を選んでほしかった。背中が痛い。
・ みんなで手をつないで、寒さをわかちあって、ぬくもりをわけあった。ラウンジの人々にたくさんみられて少しはずかしかった。
・ 見つめ、ふれ、体をもって感じることで、頭の中に言葉を取り込むよりも多くの事を考えました。
・ 言霊の授業の時、先生は人を呼んで他人を動かすことで言葉の力を証明して見せました。空を動かす言霊の力。
・ 外に出されてねっころがされたときは驚いたけど、新めて、空って大きいなあって思わされました。
・ 立った状態で見上げる空と寝ころがって見た空とは違うものだった。
・ 普段見たことのない世界でした。空は「永遠」ってことが先生に言われるまで気付きませんでした。
・ 地と空と自分との見えない関係がわかってよかった。
・ あ、空は遠くじゃなくてここにあったんだ・・・それに気づいた授業でした。それともこれは「空」じゃないのかも。表現するのに一番近い言葉が「空」なだけ。
・ 外で寝っ転がったとき、自分のすぐ近く、自分の体に接するところにまで「空」があったように感じた。「あったよう」ではなく、あった。絶対に手の届く存在ではないと思っていた「空」が本当は自分のすぐそばにあることに感動した。視点・考え方が固定化されているのはだめだなとも思いました。
・ 息をすって、はく。あたり前のようにしていることを、初めて意識した。
・ 息を吐ききった後に人は亡くなるということを知り、驚きました。何気なく呼吸しているけれどもっと感謝しなくてはいけないなと思いました。
・ 息の根が自分の中にないことにとまどったが、先生の話を聞き、実際に体験したことで少しだけ解った気がした。
・ 空は手に届かない所にあると思っていた。もっと近くなもので、密接不可分で、満たされているものだと少し感じた。つらぬかれているとは、やはりまだ感じづらい。