触覚対話

私の肩の骨の出っ張ったところを触りながら息子が、飛びでてるとか曲がってるとか言う。ぼくの指の音波を飛ばして返ってきたからわかるとか何とか。それから今度は、柱をさすった後、叩いて曰く、「ポンと言う音は、手と柱がお話してるみたい」。
「ほんとだ! そしたら色んな話が聞けるねえ」と肯い、「ほらその足の裏でも」と言ったら、色々言い出す。畳と絨毯の声が違う。(柱や壁を叩いて)ここの木とここの木、音波が違う。硝子の声はガラガラ声だ。
触れている接点に会話が成り立っている。触覚はコミュニケーションだ。そうであれば、触れているところとその相手を見つけると、おもしろい。手のひら、くるぶし、お尻の骨、肘、耳、頬、鼻のてっぺんなど・・・コンピウタ、絨毯、衣擦れ、毛布、振り子時計、空気、風と湿度・・・その相手はどこまで行くか。そして、わざわざ触れる以前にすでに触れているところに覚めるならば、身体の表面ではすべて会話が成り立っていて、それは世界の様々な境面の語りかけを聞くことになる。
生きてこうして有るということは、世界とのコミュニケーションとして有るということだ。生きていることの充実加減は、わが身に世界が充溢している加減だ。