アンチ・ブログ

以前学生さんにブログを勧められた時に、言ったらしい。ひとの日記なんて読んで何がおもしろい。そんなことする気はない、と。そんなこと言っておきながら一年後にブログをはじめたので、その学生さんは、舌の根も乾かぬうちにという抗議をしたのでした。でも、ぼくは今でも考えはあまり変わらない。自己主張みたいなことは多いわりに学ばない。しゃべるけど、聞かない。そういう自己中心的、あるいはナルシスティックな傾向が、ネット社会という状況によって一層助長されていると思うのです。本を読む人は減ったけど、本を出す人は増えた。ぼくもその一味です。で、本を出すたびに必ず後悔混じりの虚しさを覚えます。
このブログは、日記を書いているつもりはありません。だから学生さんに、日記なのに更新が少なすぎといわれても平気。ブログを転がし始めた動機のひとつは、思惟を文章化する機会を確保するためです。山陰に来て論文を書いたり詩を書いたりする機会が持ちにくくなっていたところに、ある書評を書かせてもらったことがあり、それがなかなか好評で、その際ある編集者さんに文章をかくようにすすめられて、そこでブログに思い至ったわけです。人に見てもらうという緊張を課した自分の文章トレーニングという意味と、公開することで議論の場になればいいなと思ったのも動機の一つです。ブログに関して、荒川洋治氏の次のような意見が最近の毎日新聞に出ていました。

いまはやりのブログ、ネットでの日記公開は、他人を意識したもの。それは他人においかけられること。人に見せたら日記ではない。別のものだ。日記公開は、不安から来る自己表現に過剰な期待をかける人達の、あやしげな熱気から生まれる。いっぱい書くことは、何も書かないことと同じ。書いた、伝わったという幻想にとらわれ、自分を見失う結果に。書きたいことなどなくていい。個人のひとときがあるほうが、よほどだいじ。ネット時代はもう古い、と考えたい。てもとでできることがいっぱいあるからだ。一日の日記がただひとことでも、人は輝く。世界は新しくなる。

おお! 同感。「いっぱい書くことは、何も書かないことと同じ」なんて、さすがは「現代詩作家」だなあ。ただ、文体が私の肌に合いません。散文を短く切って一行づつ配置することで詩になるとでも勘違いしている「詩」もどきの文章がありますが、それと逆で短文を繋げて散文にしているような文章で、逆なのにムズムズする感じは一緒。