終わりと始まり;脱我

終わりの講義では、『創世記』などを繙きつつ、始まりの思想に傾聴した。はじまりを、点として表象すると、過去になる。言葉についての第一講は沈黙からはじまった。そして、最終講義で沈黙に返った。「返った」はわかりやすいがほんとはふさわしくない。点表象だから。終わりも点になる。そうぢゃない。始める当のものは、始まりという一回起的なことだけで終わらない。連続創造のように、始め続けることにおいて、始められたものを維持しているのが、始点終点というところで際だつ当のものなのだ。すると、それは点ではなく場所になる。返るなんてまどろっこしい。いつもすでにそこにいて、そこに授けられゆるされてあったのだから。ほんとは、始めたものは、始められたものを導きながら、その終わりまで看取ってくる。そんなふうに、半期間の講義は長い沈黙から始まり、沈黙で終えられた。よかった。その構造は、講義というだけのことではないからだ。そして、だからこそ、講義後のあの充溢感は、話した内容が充実してよくできたからではなく、尽きたから。いっぱいぢゃなくゼロ。脱魂。透明なものに統べられた脱我的充溢だった。脱我を、ここでは恍惚の意味を含ませてもいい。