世界世界世界

今回も、アジアンカンフージェネレーションの「ワールド ワールド ワールド」を聞いての雑考。
自分が変わらずにいて世界を変えようとするのをエゴイストと言う。その発想はギャラクターやショッカーの世界征服である。とはいえ現実の世界にだってそれはある。まるで「世界の警察」であるかのようにふるまう某国も濃厚にこの臭いを発している。けれど、世界は自分のためにあるのではないという厳然たる事実の前に、その無理は頽れる。
《自分が変わる・世界が変わる》これはある。しかし。
《自分が変わっても・世界は変わらない》ということもある。覚っても救いがない。だから世界を「変えなきゃ」が強く出てくる。
世界を「塗りかえたい」といっているのだから、「変わる」ではなく「変える」の境位(後述の世界C)だとわかる。でもあくまでそれは、《自分が変わらなきゃ変わらない》てのが前提である。
以上のようなことを話す。もうちょっと突っ込んで。
世界とはまず、自分のかけている色眼鏡。その眼鏡をとおしてものを見、経験が構成されるのに、見えたものや経験されたものに、意識は行くのであって、眼鏡には行かない。〈そのように見えた世界〉、見えたというのは自分にとって見えたのであるから、意識・自意識の秩序のこと。〈そのようにある世界〉、存在の秩序ではない。世界を制約している眼鏡は見えないということも伴ってくる眼鏡、眼鏡なのに世界と思わせる眼鏡が、世界なのである。それを世界Aと呼んでおこう。
その世界は「自分の世界」としてあらかじめ閉じこもる傾向を内蔵していて、けれど、世界は自分が作ったのでもなく、自分のためにあるのでもないという現実が、その内向性を揺さぶり、時に切り裂く。どんなに閉じこもった世界でも、限りなく開かれた世界においてあるのだ。
だから、自分が変われば世界は変わる。自分のものの見方が変わることと一つに露出するのが世界B。
世界Bは、存在の秩序がまるまる露現しているような、世界がそれ自身から世界しているような、脱我的世界のことのみならず、自分の手に負えないという意味で、自分が関わる以前に既にある歴史的現実や、いわゆる「主観を離れた客観的世界」をも含めてもよい。
自分のペースでなく、世界のペースに合った(合わされた)時の世界が、世界B。自分のペースで世界を切りとってるのが世界A。
世界のペースに合った時、「自分」なんて出る幕はない(合わされた時、自分は棚上げされる)。必要もない。けれど、私の要らないところ、そこから生まれる私。「私と世界」なんてよそよそしい関係ではなくなった、世界の私。世界を圧倒的に浴びて溶かされているだけの私ではなく、熔けたところから甦ってかたちをむすぶ私。世界に即して世界を構築しようとするもの。つまりそれは世界を変えるということにならざるを得ない。世界に即さない〈私と世界〉を、変えることが要求されてくる。世界Bとは「世界は変わる」ところ、世界Cとは「世界を変える」ところ。
世界を変える。どうやって?
その新しい世界が音楽の成立として捉えられている
「自分の世界」(世界A)の、想像力による変更にすぎないはずの音楽の世界が、なんと世界を塗り変える突破口として目撃されている。個人の思いや感情から発すると思われている音楽が、新しい世界 「音が選ぶ配列から言葉たちが踊り出す」ことだからだ。音楽の主人は私ではなく、音である。「音が選ぶ」のであり「言葉達が踊り出す」のである。音が主人だから、そこから産み出される世界は私にとっては「みたことがない」のである。音達が音楽となったとき新しい世界が導かれる。音楽が世界を開く力を確かに感じている。その、音が世界構築する次元に飛び込むのは、自分が弦を掻きむしることによってである。音を発する者になる、それが自分を超え出ることになる。世界Cへの通路を世界Aのうちに見出している。
諸法無我、つまり一切の有るものが無我であることを知るのは、自分が無我になった時である。「万法に証せられる」という仕方で、である。自分に我の角が生えても、諸法の無我という事実は変わらない。事実とそぐわぬ思考をする意識とそれに基づいた行為を転じ続けていくしかない。それが世界を変えるということ。
世界Bは瞬時に成り立つ。世界Cは一挙には成り立たない。世界はすぐには変えられない。山の上から見えた遠くの地点まで、辿り着くのは時間がかかるごとくである。変えることは地道である。
「初めから持ってないのに」ということが、よくわからない。持ってないと思っているだけであろう。「何もない」と言うけど、気づいていないだけ。関心がなくても関係はある。むしろ、すでに持っているから胸が痛んだり身が裂かれたりする。何もないなら無一物。高くて結構な境地である。それなら問題も何もない。
変えなきゃいけないという必然性は、我々はすでに世界にいて、何らかの仕方ですでに世界を作ることに参加してしまっているという業にある。業とは行為連環における世界あるいは世界連環における行為、のことだ。
ぼくの在所はもちろん世界C。だから世界に挑戦するのだ。園長として。どんなちっぽけな幼稚園でも、世界の幼稚園なのだから、世界の幼稚園にならないと!