ブッダの言葉を語るのは誰か

大学を辞めて以来、園児とその保護者以外の、大勢の人の前で話をする機会を久し振りに与えられた。島根県の金藏寺という由緒あるお寺での話だ。それを講話と呼ぼうが、講義、お説教、法話、その他なんと呼ぼうが私自身はかまわないのだが、お寺での話は法話でなければならないだろう。法とは仏法のことで、仏法とは目覚めた者に通じてくる道、真理や道理のことであり、法話とは仏法の話のことである。私は寺で話をする機会は多くはない。僧侶ではないからである。
しかし、法話ができるのは一体だれであるか。この問いを巡って、数年前仏教青年の集いの九州大会で話をしたことがあるし、またこれについて、数人の僧侶にアンケートのように回答を求めたこともある。
法話は僧侶がするものである。この常識が、私が寺で話をする機会を与えられないの理由のひとつである。
では、僧侶とはいかなるものか。もちろん仏ではない。僧侶とは教団という人間集団の与えたライセンスである。法話とは法を聞いたものによってなされる。法を聞くとは、浄土真宗のコンテクストでは信心という。それは仏と人との関わりのことであり、無限なものが有限なものに開かれる経験のことをいう。宗教の核である。なので信心とは仏の与えたライセンスである。人が与えたのではなく、また与えることができるものでもない。僧侶で信心を獲得している者はもちろんいるが、僧侶の資格を取ったからといって信心がおまけに付いてくるわけでもない。つまり、法話ができるのは僧侶だとか公務員だとかいう社会的身分に関係なく、年齢にも関係しない。
こういう至極当然だと思われることは、常識にはなっていない。このたびお世話になったお寺はこの当然なことを当然だと思って実行しておられるお寺さんであった。私に機会を与えくれたのがその証拠である。残念ながらこのようなお寺は少数派なのが実情である。私がかたくなに僧侶になることを拒んでいる理由はこのあたりにある。親鸞において露わになった真理には属したいと思っているが、本願寺という教団組織には属す気はない。
金藏寺さん、そして私をして話さしめてくださったみなさま、ありがとうございました。とても閑かなところだったのだが、家に帰ると子どもたちが大声を上げてまとわりついてきて、あたかもひょろ長い草に太った雀が三羽も四羽もとまってひっきりなしにぴーちくパーチクやってるような状態。その二つの場所はまるで同じ地平にないかのようで、おかしかった。