四歳児が死ヲ想ウ

JackSpirit2008-05-20

夜、末の娘が急に泣きながらぼくに訴えかけてくる。
「エイクン死ンヂャッタァ」とぼろぼろ涙を流している。土曜日にエイが家に来ていたようだ。しっぽを触るといけない、毒があるからとかなんとか、息子も騒いでいた。小さな水槽に、エアポンプのようなものが一晩中耳障りな音を立てていた。たかが、四日しか一緒にいなかったエイが死んだことで、ここまで悲しくなるものなのかと、非情なぼくは思う。
「エイクン大好キナノニ、エイクン死ンヂャッタァ。ドウシテ死ンヂャッタ?」「オ母サンガ大好キダカラ死ンダノカ?」海にいるお母さんが恋しくて会えなくて、そんな気持ちで死んだのかもしれないと、娘が想像したことに、ぼくは驚き、切なくなった。相当泣いたあと、ふと聞いてきた。
「人間モイツカ死ムノ?」「うん。そうだよ。」「やー、ヤー、死ニタクナイー」
四歳半にしてはおぼこい娘からこんな死への感じを吐露されて、吃驚しながらおそれいった。上の絵はエイさんとエイさんのお母さんと自分だそうだ。海への埋葬のあとの、追悼の絵だ。
海という広い世界にいたものを水槽なんていう小さなもので飼うことに対して、基本的にもっている抵抗感が久々起き出してきた。魚だけぢゃない。あらゆる生き物が、飼育される際は同様な目に遭っているはずだ。
たまたま今日、園のインコが一羽死んだ。昨日は、人が死ぬときのように胸が上下するような荒い呼吸だった。四月にうさぎが死んだばかり。秋にはちゃぼが、その二年前は九官鳥。どれも老体であったのだが、続いたせいか、子どもたちの中で、園の動物はすぐ死ぬという、よろしくない声が聞こえてきた。続くと慣れてくるのか。さらに、でもまた新しいの飼えばいいなどという言葉が聞こえてきたら、要注意。伝えるべきことがある。
軽々しい死の見方、生者の扱いの中、娘の想いがきわだつ。