色のない世界

中学校生の頃から、ぼくの格好は「派手だ」とよく言われた。逆立てた髪型はよく「寝癖?」と言われた。とかく「人と違う」「変わった」風体だったのだろう。大学でお世話になった先生には「インディアン+パンク」といわれおもしろかった。でも、大学生の頃ある人が、「Zくん(これもZパーマという髪の毛がZに折れ曲がるきついパーマをかけていたせいで付いたあだ名だ)って、色は地味やけど、形が派手やんな」と言ったのを聞いて、妙に合点がいったのを覚えている。たしかに、ぼくにとって色と言えば、青と黒しかなかった。この数年でKAPITALの服を着るようになったおかげで、それでも色のレパートリーが増えた。増えたのはそれだけでなく、だぶっとしたパンツが多いので、服に体型が合って行っちゃって、腹まわりの目盛りも増えた。ほんとこの贅肉の腹巻きをどうにかしなくては!体のキレが悪い。すると、精神の切れも鈍ってくる気がするのだ。
ただ、あいかわらずぼくの認識のフイルターは白黒のようだ。アジアンカンフージェネレーションのカラーな最新作「ワールドワールドワールド」よりもモノクロな旧作「ファンクラブ」の方が好みかな。あと、或るモノについて話していて、相手がそのモノの色について語り出したりした時などに、こちらは形としてモノを見ているのだと気づかされることがある。
要するに、貧しいんですよ。哲学者であることの性とでも言いましょうか。色というのは、多様だし、ある物の様態、様相ですね。何かがどのようにあるか、という関心に応えるものです。哲学者は多様な様態をになっている当のもの(実体、主体、基体と呼ばれるもの)に関心の的があるのです。それは何であるのか。「有るもの」ではなく、「有る」ということそれ自身なんていう得体の知れないことを究明しようとするのが哲学者のオーソドクスなのです。狂人めいた営みですよね。
人はその「どんなふうに」に興味を抱くわけです。口紅の色とか、服の様相とか、音楽の種類とか、花の名前だとか、そんな話は楽しいだろうけど、どんな服であれ着るということに変わりなく、その着るということそのこと自体は何なのか!?とか、音とは何だ!とか、ちゅうりっぷであれつつじであれ花が咲くとは何なのか!?どこに咲いているのか!とか、そんなことはあんまり問題にしないし、関心もないのでしょう。
貧しさが哲学者としての自尊心にもつながるけど、どこまでも貧しさは貧しさであるから、時折、多様さへの羨望が沸くことがある。
そして、たとえばヘーゲルのように徹底した哲学者は「第一哲学」的な抽象の窮みまで徹底することで、それが窮みであるが故にそこから多様で具体的な世界が噴出し、その豊かな展開を記述することができた。不徹底な哲学者は、やはりまた、貧しさを自認して行かざるをえないのであります。