初アジカン

アジアンカンフージェネレーションのライヴに行きました。ロックのライヴはやっぱりいいなあああ。中学生の時から変わらないドキドキ感。変わったのは、中学生の頃は前も後ろも横も自分より高い人壁にもまれ圧されていたけれど、今は頭がゆうゆう飛び出て空気もあまり薄くなくアーチストがよく見えるということですね。ライヴハウスでのライヴがやっぱり好きです。ハコも米子のそれと姉妹店らしく、キャパ300くらいのところ。田舎の贅沢ですね。
鳥取に移り住むのと同時にぼくの生活に寄り添うようにあった彼らの曲。新天地での出勤前BGMだったもろもろの歌は、いまもその時の新鮮感を呼び起こしてくれる。
肝腎のヴォーカリストは、昼まで寝てた大学生が起きてすぐスタジオに入って演奏してるかのような、見事なローテンション。そして時折アイロニカルな笑み。その人が、世界を変えたいなんて言うから(しかもマジ)いいんですよね。ああ、本物見てよかった。
転がる岩、君に朝が降る」とか、前川清の歌いっぷりに直立不動で聞き入ってしまうような感がありますね。ただ、松江のお客さんはおとなしい? 確かにタテのりヨコのり変拍子があって踊りやすくはないんだけど、それにしても体(自由と個の焦点)が動いてない。ぼくはいまだに、手を挙げて決まり事をしてる人を見るのが気持ち悪い。意識における一体感はごめんだ。手だから、意識的に合わされる。それと比例(反比例?)して体(足腰)が動かなくなる。モッシュの中に入り込んでも、腰をかがめて踊っても、足腰が止まって棒立ちになってるのがよく見える。跳ねず腰振らず手だけ振り付けをする。そう、踊るンぢゃなくて、振り付け。これを体の不在・意識の肥大として、講義をしてきました。たとえば「グレイとハイスタ」とかいってライヴビデオ見ながら。

未だ見ぬ明日に

未だ見ぬ明日に

で、新しいアルバムを聞きました。相当いい。前作が出てから間がないのは、一連の作品だからであり、前作を出した以上、必然的に出てくる事態(未来)を語らずにいれない。そんな感じを受けます。「虚しい命だ」と言い続けているうるさい爺をよろこばせる言葉たち(たとえば「一瞬さ、ぼくらの命など」)が、ちゃんと歌われています。自分の終わり感覚を離れずに世界の終わりも感じられてくる、そこに、未来が希望となる深い動機がある。
そして今日久し振りに、死の空白感に襲われることしばし。