不審者の落とし穴

通り魔事件があったり不審者情報が頻繁に流れたりすると、どうしたって心中穏やかではいられない。特に百人近い園児を預かる施設の長である以上、具体的な対応もとらねばならない。
この春、近所に不審者が出たという情報を得た翌日、不審者対策避難訓練をした。その時の不審者役は、私だった。
子どもが園庭で遊んでいる午前中、園舎となりの駐車場で着替えて(これは近所の人から見たら十分不審なのだが)、園前の道をうろうろする。変装がうまくいきすぎて、サングラス越しに見える先生方が、「え?あれ園長先生だよね・・・???」などと言っている。園庭にいる子どもたちもフェンスをはさんでうろうろしている私を見る目は知らない人を見る目だ。そして、私はまるで不審者眼鏡をかけたかのようで、なんだか気持ちまで不審者的に高ぶってきた。実に奇妙な気分で恐ろしくなった。何かしようと思えば訳のないことだというような・・・そこで、フェンスの近くに娘がいてこちらを見ていたため、「あ、バレるかな」という思いが生じて我に返り、避難訓練上の挙動に戻ったのだった。
ところで、ある時気がついたことがある。不審者という言葉の奇妙さだ。不審だと思うのは私の心である。不審者は私ではない誰かである。「不審」に「者」をつける、すなわち、私の心を他人に覆い被せて実体化する。それは自己中心的だ。不安な心にとっては、いたるところ不審者だらけだ。
客観性(実体)を欠いた主情主義を押し通すのが、日本教徒の伝統である。あるいはこの国での実体とは、感情だ。そういう関心のなかにある時、その実例として、「不審者」なる言葉(そしてそれを発せしめる意識構造)が浮上したのであった。
怖い時代になったものだといって嘆くのは大人の常套手段である。しかし、これも主観的なムードであって、客観性を欠く。犯罪件数は30年前に比して格段に減っている。猟奇性に関しても今の事件が高まっているわけでもないというのが、「膨大な実証データによる」冷静なる見解である。(http://kodomo.s58.xrea.com/「子どもの犯罪被害データベース」参照)
膨張して社会を覆うまでになったムードはおそろしい。われわれはそれを歴史上、何度となく経験してきたはずだ。気分やイメージに流されて事実を見ることができず、それがために気分に歪められた社会が成立する。大人達の過度の不安が、子どもたちの行為・生活を過度に規制する。子どもたちは外でますます遊びにくくなる。生活、社会、経済、政治等々、実体的にあるかのように思われがちなものが、いかに曖昧なものをベースにして漂っていることか。
 根拠のない「漠然とした不安」などに支配されることなく、等身大の怖れをもって生きていきたいものである。