作者と作品――イイホシユミコと磁器

このごろすっかりバカ親ブログになり下がっているので、たまには子どもネタぢゃない話をしないとね。
作品と作者の関係は、簡単ぢゃない。作品はもはや作者から離れていると考えれば、作者なんてどうでもいいともいえる。逆に、作品と作者があんまりに別物だと、8月23日のブログのテーマのように、「不誠実」な感じもする。ぼく自身、研究者のあり方として、たとえば論文を読んで感動しても、実際その人と会って話して失望するときは、「言文一致体」(と言っていたが正確には「言人一致体」とでもいおうか)ぢゃなかったときだ。
で、だいぶ以前(20060212のブログ)作品を紹介したイイホシユミコ女史が『天然生活』という雑誌(10月号VOL.57)に出ていたので、作品が気になっていた人はごらんください。たぶん、作品の写真はいろいろ見ることができるだろうけど、彼女自身の写真が出るなんてことはまれぢゃないかしら。作品はHPで見れます。www.y-iihoshi-p.com/
彼女の言葉を聞こう。
「手づくりのものは作り手の手跡が残らないように
プロダクトのものは手づくりの良い部分を活かして味気のないものにならないように 」
「手づくりとプロダクトの境界」
さすが、カッコいいこと言うねえ。
わざとらしいもの、らしいもの、それはわかりやすい。分かれば安心。安定。そういうものを拒否したところに、動きが出る。生命が奔出する。それが境界という場所である。
そういう場所に立つには、緊張感とバランス感覚がいる。バランス感覚と言うと、分かりやすくて実に誤解されやすく、日本教が「バランス」を中軸にしていることを知って以来、この語は使いにくい。換言しよう。とどまらず身を翻し続けるということのただ中にこそある安らぎを生きる。矛盾的自己同一ってそういうことぢゃないかと思う。一つところにとどまらず、転がり続けるって意味ではロックですね。