水と影

先日、大山で川遊びをした。ちょっとした渓流で水は透明で冷たく、昼前の日差しが強かったとはいえ、すぐパンツ一枚の姿で遊んでしまう娘たちには笑った。おさなごはすぐ、水に憑かれてしまう。秋の水だろうが夏のそれだろうがおかまいなしだ。
水は、形なきもののようであるが、流れのところどころに水紋ができている。形が刻まれた時、水底にうつる水の姿が変わる。太陽が何もないところを通過したかのように、水を感じさせなかった状態が転じて、水の姿が見えるようになる。透明である水に、影ができる。水面では形としてある文様が、光をうけて、水中では影として現れる。
影がものを浮かび上がらせる。ものごとを深くするのは影である。
山陰という言葉を差別用語のようにきらうのは、未熟な精神のあらわれであろう。目立ったり騒がれたり脚光を浴びたりすることばかりにあこがれることなく、陰影を受け容れよう。そこに、物静かな誇りが醸成されてくるはずである。