くぬぎの子

余子神社で育つもの。カブトムシ、クワガタムシ、虫を捕まえるのに夢中になる子どもの心、父と子の共通の関心、帰ろうという子どもを待たせるほどの父親の熱さ、高校生が小さい子を思いやる気持ち、飛んでいるカブトムシを捕まえる興奮。
そんなたくさんなものを育んでくれた余子神社のクヌギの木に感謝の気持ちをもって、クヌギの子どもたちを植えよう。この木がもつ教育力をあちこちに展開できたら結構なことではないか。どんぐりという潜在力の塊を、ポッケに入れた。
教育力というと胡散臭いし、「教育」も「力」もあまり好ましくないので、言い換えよう。
木に育まれているんだと言えばいいのかな。カブトムシがクヌギに育まれるように、私どももクヌギに育まれている。
感謝とは心だけのことではない。行為である。だから、強要すべきものではない。恩恵をもたらされたものが、その心を駆って恩に報いようとするのは自然なことだ。