山陰の春

立春に、「寒」極まるってことはよくあることだ。「暦の上では」っていうヤツで、まだまだ空気は冷たく、雪さえ降ったりする。
凍てつくような空気だけれど、そこを通り抜ける日射しが暖かい、そんな山陰らしからぬ日和がおとづれだす。
「山陰らしさ」などといえば、それでは何が山陰を感じさせるのかというと、即座の返答には困るが、雨はそうだといえるであろう。このところの雨は、雪への変容を予期させる冷たい雨ではなく、春を含んだようなぬるい雨だ。もはや雪は積もるまいと、寂しさ半分に春の到来を思う。
あわただしい日暮らしのなかでは、季節を感じるいとまもないほどである。それでも、手紙(といっても今は電便だが)に時候の挨拶を書くという形式はありがたい。紋切り型で実感のない常套句を使いさえしなければ、そこで多少なりとも、今おのれの置かれている季節を思う機会を与えられるからである。
 京都にいた頃と今とでは、明らかに時候のあいさつ文は異なっている。私どもは「季節内存在」である。住むということのトーンをそれは目立たない仕方で握っているであろう。