子どもの言葉(32)―よいことをするとは?

「ミサンガしてたのに願いがかなわない」と末の娘。その願いとは「お菓子の家に行くこと」。ぢゃあ、「いいことしたら?」と長男。「しづく、ひとついいことしたよ」と長女。「ほんとにいい人はいいことしたなんていわないだろ。自慢なんてしないだろう」と言ったのは、息子。
小学校5年生ともなれば、「いいこと」にまつわる単純じゃない事態に気づいてるのだなあ。小学生でも気づく人は気づくし、大人でもわからん人にはわからんということだろうか。新聞などで「人の親切を無にした若者に心外」と投稿する年寄りはよっぽど素朴だ。自分を「親切」といってはばからない。いいことは「する」はずのものであって、言うべきものぢゃない。仮にほんとにいいことしても、それをわが口で反復した時点で、その行為はゆがめられる。したがって、我というフィルターを通ることで善から転落する。口で言う、意識する。いいことしてる意識を持っているのが善人。善人だらけ。
行為にまつわるその主体としての自己が残るか否かがカギを握る。行為のほんとのの主体は自己なのかという問いが2つの世界の橋渡しをする。「自己」は突破さるべき覆い。世界が行為する、その一焦点。行為する世界に私という枠をはめて分捕った時、「私の」行為となるだけ。それを私基準で見て超えようと言語化するなら、「行為せしめられている」という言い方になる。
私がやってあげた、いいことした本人がいいことと一緒に立ちはだかっている、めざわりないいことだらけ。心配しているというより私が心配しているのだというアピールが結局したいんだろうと思わせるような、耳障りな親切ばかり。だから「やさしい」言葉が一杯でうるさい。
息子のはじめの言葉は、陰徳を積むことが大切ということが感じられているであろう。陰こそ大切!