相撲の聖性

先日、港神社であった小学生の相撲大会で思わず熱い声援を送って楽しんだ。
相撲はかつて神事であった。神事とは聖域に関わるということである。聖域とは神々が降り立つ場所である。そういう場所で神々に奉納するのが相撲であったのであろう。こう言うと、「神は死んだ」現代では、仰々しいような、疎遠なような感じがするかもしれない。
しかし、もともとは逆である。神があってその前で相撲をささげるのではなく、人がぶつかり合うそこに、人知をこえるような力が発揮されたり、はかりしれないことが起こったりする。その経験が、日常性を脱した神的な状態であり、際立ったときは神がかりと呼ばれ、その現場は聖域となる。神的な経験抜きに考えられた神は死んで当然。神が神として成り立つ場は直接経験の現場と言い換えてもよい。「神」にかぎらず、ものごとが成り立つには場がいるのだ。
そう考える時、小学生同士の相撲でさえも、思いもよらぬ力が発揮される以上、今でも聖なる場所が開かれる可能性を秘めている。