アジカンのライヴ後の耳鳴りの中で

この度の「マジックディスク」は駄作だ。ライブを見てその感慨が確かになった。

マジックディスク

マジックディスク

世界の虚脱、世界が体に満ち満ちた者にのみ経験される、虚脱感。
後藤氏は相変わらずたったさっき起きてきた大学生のような、力無さやぼんやりかげんは前回同様なのだが、ただぼんやりしてたのとはちがうものが見えた。
その虚脱は生活からも来ているようにも思われた。「世界」(非日常)を経験したもののつぎに来るテーマは「生活」(日常)だからだ。生活とは単調、退屈が基調。結婚の大変さと偉大さは、そこだ。世界の表現としての生活は積極性を汲んでこれる。生活の飽き飽きする平板さは、世界の虚脱へも地滑りし得る。
彼の表情はアイロニカルだったのがシニカルになってる。皮肉は真理の表現としての熱を帯びている。冷笑は創造的なものは微塵もない、虚脱。
余りに前々回のアルバムがあまりに高い頂を築き上げてしまったが故の苦労がにじみ出ている。二日酔いの体で朝日を浴びる如く、世界に満ちていた時の作品を演奏するのははばかられるかのように、不思議なほど「ワールドワールドワールド」「未だ見ぬ明日に」からの演奏がなかった。最高峰の曲「転がる石、君に朝が降る」はしたけれど、もう別の曲。高い声を出せるほどの存在の張りがない。
前回のアルバムは、「ワールドワールドワールド」の後光の中でのブンガクだった。哲学や宗教が至った深みの表現としての文学のみが、まどろっこしい展開をすることでの暇つぶしという営みを脱することができる。
宗教とか哲学とか、誤解のないように言っとくと自意識の強い自己探求が、その果てに世界を発見する、ということ。世界と言ってもだから、自己の根源としての世界。なので、世界の虚脱は、行き場がない。世界という自分の内実は満たされず、「自分」に閉じこもることはもう不可能。
世界に飽いたぼくの今が、彼をして、世界の虚脱として感ぜしめるのかもしれないが、自己から世界へ深まって熱いものを身に帯びてしまった人の辿る道としては、一つの道としての必然性をもっている。