がんばらない

書くことを確保しようと始めたブログが、ちっとも書けてない。アイディアは浮かんでも書くにいたらない。書き始めたけど何カ月もたっちゃう。場合によっては1年以上も。以下も、そのたぐい。

被災地をめぐる報道に居心地が悪い思いをし続けている。
被災状況は色々あるはずだ。親が行方不明のままの人と、家がガタガタだけどそれでも自宅に入れる人と、放射能汚染におびえて暮らす人と、体育館生活している人と、子どもを喪った人と・・・。具体的には色々なのだから、「被災者」という一くくりにしてメッセージを言うなんて、むつかしい。それなのに、「日本は今」なんて、日本を主語に語るなんていうことは、居丈高というのか、大上段と言うのか。気分の高まりだけで物を言っているということなのか・・・
本当にさまざまな状況やそれに伴う心情があるだろうに、またそこに行っちゃうの。結局そこなの。「がんばろう日本。」
言葉が貧しい。その言葉しか知らない精神が貧しい。その言葉に満足してしまってる感性が貧しい。
「日本は強い国、必ず乗り越えられる。」いったい誰に、どういう状況の人に、向けられたメッセージなのだろう。
ぼくが被災してないから、そういうメッセージが響かないのかもしれない。でも、そういうメッセージを発している人の多くも被災していない。
3月ごろあるTV番組で、被災者からのメッセージを紹介する番組があった。「がんばれはやめてほしい」。その理由はわすれてしまったのだが、そういう人も当然被災者にはいるのだ。けれど、その言葉に続いたメッセージは「がんばれ」だらけ。
「被災地に元気を与える」なんてことも、平気で言う気がしれない。
いいかげんやめない? 「がんばれ」は。
それでも、親近感を覚えたものも少数、ある。
東北高校の監督だったと思うが、甲子園に向かう生徒たちに話していた。今がどんな状況かわかってるだろう。被災者を元気にするなんてとんでもないことだ。そんなこと無理に決まっている。とにかく、出してもらってるのだから、精一杯やる。その結果、ひとりでも力をもらったと感じてくれる人がいるかもしれない。というようなことを言われていた。地に足のついた言葉として地響きのように伝わってきた。
あとは、森達也さんの記事(日本海新聞で2011年4月14日)。森さんらしい、ぼくをほっとさせてくれるような言説を紹介して駄文を終える。「作法も制度も建前も、あらゆることが引き剥がされ、跡形もなく壊された。この記憶は絶対に消えない。命はこれほどにはかない。無力であることを思い知らされた。でも、僕たちはここから歩き始めなくてはならない。」