「はやぶさ」の人格性と非人格性

はやぶさ」がもって帰った石が見れるので行きたいという息子の声で、妻子が松江の展示を見に行った。そこで上映されていたドキュメンタリー映像によって、妻が「はやぶさ」にハマった。
そうして、私も見に行った。さらに、ちょうど上映中の映画を、今度は家族全員で平日の夜、見た。
はやぶさ」という小さい宇宙船、というかロボットがある小さな星へ向かって旅して、その星の石を採取して、再び地球に戻ってくるというお話。

はやぶさ」は私の身の丈とそれほど変わらない、小さな宇宙探査機。その小さい舟が壮大な宇宙空間を7年にもわたって60億キロ航行するというだけでも驚いてしまうのだが、その小さい舟が目指す惑星「イトカワ」というのがまた、タンカーほどの大きさだというから非常に小さい。大きな大きな宇宙のなかでその小さな小さな二つの物体が接触するというのが、砂漠の中でピアスを探すようなこと、いやもっと大きなスケールで信じがたいようなことである。

この小ささがみそのような気がするのだ。
アメリカの派手な宇宙開発に比べて日本のそれはパッとしないなあと思っていたが、たしかにそうなんだけど、金をかけないからそうなんだけど、だからこそ要求される繊細さや工夫がある。湯水のような金を使えてドでかい有人ロケットばかばか飛ばせる状況下では、あの発想、工夫、繊細さは生まれてこないであろう。そしてかりにアメリカ式が一番であるなら「二番ではいけない」ことはない。
機械であり、ロボットであるから、非人格的なもののはずである。しかしそれがあたかも意思を持っているかのように語られ見做され受け止められているのだ。そして、それに違和感を感じない。非人格的なもののストーリーなのに人格的つまり「泣ける」のだ。
これは単なる編集者の意図とか語り手による擬人化程度のことではないであろう。
ぼくは西谷啓治の『宗教とは何か』における、人格性と非人格性とのかかわりのことを思っていた。西谷は、機械論的自然観の非人格性にニヒリズムを見た。その虚無性は神と人との人格的関係をむねとする宗教を底冷えさせる。そういう虚無性を全面的に引き受ける、そこから新たな人格的関係が再蘇する道を見出そうとしていた。神も仏もない意味も目的もない世界引き受け得る場が「空の立場」である。
このたびの「はやぶさ」の解釈映像は、そういう問題連関を考えさせるものであった。