祖母の死に際し、とりとめもなく。

父方の祖母が12月27日に亡くなり、新潟に赴いた。106歳であった。なんとなく最近気になっていた。こないだあった時が百を越えていたから、今は105か106くらいだろうと思っていた矢先だった。
かくしゃくとした祖母であり、私が幼いころはなんとはなくこわいおばあさんであった。お寺ということもあり、きちんとしているところなので、そこへたずねていく時はいささか緊張していたものだ。祖父がおおらかでにこやかな方だったのに比して、学校の先生だったこともあってか、気丈な、しつけの厳しい感じのする人だった。ぼくが幼少のころからおばあさんだったので、60歳くらいからすでにすっかりおばあさんの風格だったのであろう。夫に死に別れての四半世紀はどんなだったろうなんて思うのは、ぼくが夫婦という経験をしているせいであろう。
まあ、明治の人の生命力というか、気力というかは、一体どこから来るのだろう。100歳を越えて足を悪くしても、リハビリをするなんて、僕なら到底そんな意志は沸かない。
文字に関してもそうだ。入院したり施設に入ったりしても枕元には本があったという。老人になるということは本を読む気力も起きない人になるということのようだが、祖母は違っていた。ぼくににあてた平成17年、ということは99歳頃の手紙は、はがきいっぱいに実に細かい字でしたためてあって、当時も驚きだった。内容は、僕らの結婚の記念に進呈した『歎異抄』を読みなおしている、以前一通り読んだが「今又読むと有り難く、よい本を頂いたとよろこんでいます」ということが強調されて二度も書いてあった。最後のはがきは日付は平成20年の年賀状なので、101歳の文字ということになるが前便よりは字が大きくなってはいるものの確かな筆跡で記されていた。100歳を越えても、読むことはおろか書くことすら能くしていたことの証である。
釈、徳永の両先生を機縁にこの頃気になっていた、死んでゆく体の自然ということだが、祖母はその通りの死を迎えたようである。死ぬ前食欲が自然と衰え、食が細くなり、食べなくなり、水だけになり、呼吸も心拍も弱弱しくかすかになって行きながら、自然に死んでいったようである。とはいえ、完全に食物をとらなくなって3日のことだったので、死に顔は枯れたという感じではなく生気が残っていたほどであった。
納棺前の目前に横たわる祖母の横顔、ふと眼を横に移すと、父の紅潮した横顔、その描く線の相似形を眺めつつ父と祖母の関係を思い、思うともなく、私のまなざしは息子が私の母が死んだ時に私を見る息子のまなざしへと空想の中で転換したりした。
納棺後ほどなく、祖母の妹が現れた。祖母によく似た、しかし祖母より相当若く、その証拠に色つやもよい方で、しっかり歩いて姉と対面していた。
祖母の兄弟は7人でそのうち5人くらいも齢90を越えても健在であった。その妹はなんと、祖母の下の妹で、2つちがいということで104歳。80代に見えるといってもお世辞ではない。その、妹さんが「104の私が言うのもなんだけど、十分長生きして大往生だ。もう、自然死だわ。」この言葉を、ことに「104歳の私が言うのもなんだけど」という枕詞を、一緒にいた30分ほどの間に何十回聞いたろう。
ところで、「大往生」という言葉はぼくは嫌いだ。世の中では、長生きして自然に死んだことを大往生というのは知っている。それはまあ、目をつぶる。世間語だから。でも、僧侶までが大往生なんて言うのはほんといやだ。まあ、「いやだ」なんていう感情ではない言葉で言うと、それは浄土往生という意味で言っていないということだけは確認しておきたい。20歳で死のうが、106歳で死のうが往生です。その程度のちがいに「大」をつけるなんて、無限の眼から見たら違いはあっても「大」ではありえない。無限からみて、死ぬことを生まれることだというのが往生ということなのだ。だから、かりに「大」という語をつけたいなら、この世のことにはつけられない。超越の次元を示すのに使うべきである(たとえば「大行」)。
それはさておき、その妹さんのトークが実におもしろかった。「私は7人兄弟。Aは死んだ。Bは死んだ。弟のCは死んだD,E,Fも死んだ、私だけ。ハァー」と笑みを浮かべながら言う。その5分後に息子さんにたずねる。「7人のうち誰が残ったんだ?」と。その答えを聞いて、「私ひとり。はぁー」。この舌の根も乾かぬうちに何度も何度も繰り返される老人トークに、軽妙さと楽しさを感じながら聞いていた。
彼女は90歳までお茶とピアノの先生をしていたようである。今でも自分であるけるどころか、薬を一つものんでないというのは驚きである。そしてどことなく、104歳の人に言うのもなんだけどチャーミングなのだ。祖母も、こわいと言ったが、どこかそんな感じがするところがあり、幼少期のユーモラスなエピソードも聞いた。106まで生きた祖母は幼少期大変体が弱く痩せっぽッちだったとのこと。回りの人に、じょうちゃんは骨と皮ばっかりだと言われたのに対して、ちいさい祖母いわく「血もあるもん!」。
祖母の家系は傑物多出の家で大漢和辞典諸橋轍次社会学の草創期の学者建部遯吾、日本画家の三輪晁勢、父親は新潟のある村の名物村長。なんたって、自転車のサドルに頭で倒立して走るアクロバット、明治初年に乗りこなしたのは一輪車、というだけで十分変わり者ぶりがわかる父親。兄弟は版画家、ベルリンオリンピック候補まで行った体操界の重鎮。こんな状況で育った祖母が普通なわけがない。かしこくないわけがない。
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    曲乗り、その名も「帆かけ舟」
とりとめのない話は、脈絡のない話で終える。
祖父は僧侶で、ぼくの、宗教への懐疑を打ち崩し宗教への謎へ連れ出した人物であった。それに対し、その息子である叔父とは仲が悪かった。お互い嫌いあっていたこととおもう。長い間の関係のなかで、十分な理由がある。もちろんこっちにもたくさんの無礼や詫びるべきこともある。そして、色々ある中で、一つ例を上げれば、僕は祖父が死んだ時大学1年生だった。そしてその数年かけて色んな体験や研究をして、青いながらに批判的にいろいろ語りたい時期であった。その頃に、叔父と色んな議論をしたのが、悪い印象につながったのであろう。ぼくの方もそうだったから。祖父びいきなぼくが後を継いだ叔父のやり方にいちいち不満であったことは叔父には気分が悪かったろうし、ぼくは「便利なのが一番だ」などという叔父の発言に憤慨したりしたのである。
この度の通夜や葬儀で、あまり聞いた覚えのない叔父の読経の声を聞いた。それは普段の声とだいぶ違う声であったが、読経の声が普段声と違うというのはめずらしいことでもなんでもない。ただ、その、ちょっとひしゃげたような太い声が、どこかで聞いたことがあるような気がしたのだ。そして、気づいた。祖父の声だ。嫌いな叔父と敬愛する祖父の声が同じなのである。そして、驚いた。自分の父親に反発しているように見えた叔父が声に於いて祖父につながったのである。声が伝承されるということに、初めて感じる感慨を抱いたのであった。