大晦日問答

「とうさん自殺したら地獄に行く?」「んー、行くかもねえ」「自殺したら浄土行けんだ?」「んー、浄土に行けるのは信心を得た人だ。信心のある人は多分自殺はしない。」「お経にはね、十回でも念仏した人は浄土に行くって書いてある。」でもそのあと読んでごらんよ誰でも行けるなんてことぢゃないよ、とぼくが言うまえに、「ただ、五逆罪の人は除くって。五逆罪ってのは・・・(五つをあげる)」「それって、第何願か知ってる。」「十八願。」
息子はこのところ、夕食直前、他の人が配膳をしているころに、経典を声を上げて読んで家族に聞かせている。今日は『般若心経』。最近は『大無量寿経』だった(いづれも現代語訳)。願文が次々繰り出されるくだりを聞いて、ぼくは、親鸞さんは四十八もあるうち、よくもまあ、なんでまあ、十八願をもっとも根本の願として抽出したのかなあと漫然と思っていた。
で、息子がいきなり第十八願を言うもんだからいささか吃驚して、「なんでそこを今言ったの?」「いや、気になったから。オレも浄土に行きたいからね。ほかにも気になったのがあるけど・・・」とのこと。彼のことだから、十八願が特別の願であることについての何かしらの情報を入れていると考えてもおかしくはない。しかし、彼の言葉を文字通りとるなら、知識に基づいてのことではない。「看経の眼」という言葉があったと思うが、経文をよみとる眼力が発揮されたということになる。しかも、よりによって第十八願を、しかも「唯徐」のくだりが気になったとは、恐るべしと言いたくなる。そこで僕は、それについての一切の説明をやめて、大事なことだから自分で考えなと言って話を終えた。