青い風光

両の手は翼のなごり青嵐  掛井広通
この句が作者に降り立った時、その人は両手を広げ風に向かって立っていたのである。全身に風をはらんで空中にいるかのような感覚に襲われた時、手は翼だと思われた。ほどなく、翼でなく手だという「現実」にもどる。しかし、翼の「なごり」という想像を勝ち取り、現実は青い疼きを伴いつつ膨らむ。
新緑をどよもす風は時を消して吹き、青さの地平を開く。私はかつてもっと飛べたのではなかったか。体も思考も重くなり、青いけれど軽やかだった私とは遠く隔たってしまった。手が翼であった如く私は今と別のものであった。今の私はその「なごり」だという、痛々しさ。でもみじめではなく、肯定的な追憶になっているのは、ひとえに「青嵐」のおかげであろう。
今日も子どもたちはバスが新緑の並木道を通るごとに、「青嵐のトンネルだ!」と歓喜の声を上げている。