蛍と夜景

以下の拙稿は、2002年8月『信仰』(百華苑)という小冊子に収められたものである。当時私は京都の洛西に住んでいた。結婚して家を探していた私どもの条件の一つは「不便なところ」であった。

「蛍と夜景」
京都タワーとほぼ同じ高さに、わが家は立っている。ここも京都だったんだ、と時々思い出すほどの農村なものだから、高層マンションも立っておらず、二階の窓からは市街が一眸できる。冬の夜などは、街の灯りのまたたきに見入ってしまうくらい、見事な夜景をのぞむことができる。
 ある蒸し暑い夜のこと。いつものように京都の市中をくぐりぬけて家路に着く。赤い街を背に黒い山に向かって登ってゆく。農道をざくざく踏んで行くと、ポッ、ツー、フワッ、ポワッ、チロリ、スーッとかすめる灯あり。目がかすんでいるのかと思いきや、なんと蛍が舞っているではないか。たとえようのない青い炎と飛ぶさま。感涙にむせぶ一歩手前の歓喜のなか、しばし立ち尽くした。
 捕まえたらつぶしてしまうかもしれない。持って帰っても死んでしまうかもしれない。弱々しい美しさ。はかない力強さ。神秘という言葉がよく似合う、かの光。
 ふたたび歩きだし、振り返れば、さきほどの農道とそのはるか下につらなる京都の夜景が見える。
 蛍と夜景。二つの灯の中に、私は住んでいる。
 どうだ、環境のいいところに住んでいるだろ、贅沢だろ、と自慢しているのではない。私のみならず、人は蛍と夜景というものが代表するような、相容れない二つの世界に同居している、と考えるのである。
 夜景のほうに親しみをおぼえる人もいよう。森をさまよった挙句、やっと街の灯りが見えてきたとき、それはあたたかい灯であろう。旅につかれて飛行機から見る街の灯りは、やさしく癒してくれるかもしれない。
 しかし、夜中、いつ目をさましてみても、窓の外を見れば必ずともっている灯り。消えることのない、コンビニエンスストアがそれを代表するような、二十四時間消えない電気。それは、人知と技術の力強さの賜物であり、その力は地球規模で気候を変えるほど、強大になっている。
 今、手もとに「宇宙からみた夜の地球」という写真がある。夜でもたくさんの電気が、宇宙空間を目指して光っている。先進国と呼ばれている地域がことのほか明るい。日本列島は光の国のようだ。
 「灯をつけると夜が無駄になる」。金子大栄の言葉である。
 周知のように、電気を使うことは、発電のさい化石燃料を燃やすので、地球温暖化を促進する。温暖化は地球規模での気候変動といいかえてもよい。日々、世界の各地での異常気象が報道されている。
 地球規模での環境破壊などといっても、どこか遠いところで起きている話ではない。小さな電気ひとつにも、地球規模の破壊と同質なものが宿っている。つまり何気なく使っている電気であっても、その一つひとつの源には、膨大なテクノロジーの力がある。
 蛍の光はどうか。
 環境破壊をやめるには電気を使ってはいけない。蛍をあつめて電気の代わりにしよう。もちろん、そんなことを言いたいのではない。実際、環境破壊をくいとめようということは、原始生活にもどれという要求ではない。そんな非現実的な主張をするエコロジー運動など、そうそう存在しないであろう。
 蛍が自然破壊をしたのではない。蛍の光はどれだけ光っても地球温暖化を促進しない。
 この光。これと同質の光を、私ども人間が、呼び覚ますことができるかどうかが、肝腎なことであると思われる。のべつ幕なしの人知の光、とどまるところを知らない技術の力、この人知人力の暴走をどうにかしなければいけないと考えるものにとっては、決定的である。
 暴走を止めるなどということはもはや望めないように思われる。止まらざるを得ないという破局的な状況にでもならなければ、止まらないであろう。少しでも勢いが緩慢になる程度のことしか望めない。しかし、その程度のことでも大きなことなのだ。
蛍の光のもとに触れて、はじめて夜景の光はしづめられると思われる。
自然か人工かという二者択一的な選択はありえない。非現実的である。いづれも人間を成り立たせているものであるから。人間の矛盾する二つの面、あるいはこの二つの面をもって矛盾するのが人間であるから。矛盾して一つなのである。たえず矛盾を解消して、どちらか一方につきたくなるのが実際であるけれども。
 蛍と夜景という対極的な二つの光。それぞれの性格と問題性と、両方が人間にとって本質的だということなどを、ちょっと考えてみた。
ところで、阿弥陀仏の光とは、どういう光であろうか。