あきれた僧侶

「まことの保育」という浄土真宗系統の保育体系があり、それ自身いろんな問題をはらんでいるのだが、それは今は言わないでおく。その「まことの保育」をめぐって研修会をしたりなんだりするために大小の集まりがある。ある会で、ある年配の僧侶が、「この歳になって」「この歳になると」というムードでしきりに語りだす。年寄りの感慨は、他人がどうこう言うのでもないので、長いけどまあ聞いておく。自分の園の職員を対象に強制的に年一回、寺で講師をよんで仏教の勉強会をするとかなんとか。とりあえず、結構なことだ。
ただ、聞き捨てならないことを言う時は相手が年配だろうが権威だろうが、私は口を出す。今の子どもたちが陥っている状況に対して、それの問題点を克服すべく、これこれのことをしています、と私が言った。子どもの問題は親の、社会の、そして時代の反映であるから、克服の道は困難だということはよく知っている、だから、うちの園の教育目標と教育理念を50年のスパンと500年のスパンとの背景を以て考えだしたのである(美哉幼稚園HP参照)。
ところが、その話に対して、件の僧侶が「無理だ」という。無理とか言ってないでやらなきゃいけないと言うと、「もう間に合わない、手遅れだ」と言う。「間に合わないって、何に対して? もしかして、自分が死ぬまでにってことですか?」と言ったら半ばみとめる。憤慨した。あきれた。あんたが死んでも世界はあるんだ。あんたが死んでも子どもたちは生き続けるんだ。それなのに、自分の死ぬまでなんていうスパンで考えてるなんて、なんたる自己中心的な物の見方なのか。そう言って怒った。だから個人的な感慨を平気でだらふだら人前にご開陳して平気という厚顔ぶりなのである。でも、かの発言は「年寄りの感慨」では済まない。
その人は、自分はしゃべるが人の話は聞かない。だから人の話は理解できない。そうすると、誤解に基づいて避難したり文句を言ったりする。挙句の果てはあんたの話は聞かないといって、耳を完全に閉ざし、対話の道を完全に塞ぎ、無視をしだす。そういう生き方から、上記の自己中心的な発想が出てくるのは自然なことである。
鈴木大拙は、晩年までもモーレツに動き回り働いていたという。それを見た周りの人が、鈴木先生もう少し休んで下さいというと、次のように言ったという。
「今やっておかないと、300年後に咲く花も咲かないぢゃないか」