かそけきこころのざわめき―酒井駒子『BとIとRとD』

子どもは不意に泣きだすことがある。幼稚園ではめづらしいことではなく、訳もわからず泣きだすのである。「訳もわからず」と言ったがそれは大人である。子ども自身からすればきっと理由がある。だからって、大人は不用意にも「何で泣いてるの」などと聞いてしまう。言葉世界の新参者である幼な子に、自分のひそやかな心を巻き込んで起こったささいな出来事を言語化できるわけがない。そよぐような心のひだを言葉に置き換えるなんて大人にだって至難の業なのだ。
ところがその至難の業を、駒子さんはやってのける。それが『BとIとRとD』という本である。

BとIとRとD (MOEのえほん)

BとIとRとD (MOEのえほん)

どうしてここまで言葉の幼虫期であるような時期の子どもたちの内面に密着できるのだろうか。そして、彼女らが言葉で表出できないものを代弁できるのだろうか。
駒子さん自身の心的体験を描写したのかもしれない。だとしても、その数十年前の心を今に保ち続けていることが驚きである。それは実に感覚的なリアリティーをともなった今なのである。
赤い蝋燭と人魚

赤い蝋燭と人魚

ちょうど駒子さんの絵が『赤い蝋燭と人魚』がよく似合うような北陸的な陰影を持っていて、決して明るくないように、子どもの心もそんなに明るいばかりではないであろう。繊細で鋭敏だからはかなく、こわれやすさから来る不安を抱いているのかもしれない。その弱さゆえに陰を許容するひそやかな空間がそなわっているのかもしれないと、この本を読んで思う。
そして子どもの内面をろうそくの明かりのように灯されると、いやでも思わされるのがわれわれ大人の至らなさであり、無神経さである。それは、さくらがいをわしづかみにするごとくである。大人は日々子ども世界を踏みにじり、崩壊させたことすら気づかない。だから、やり続けるのである。
ことに「お友達」という章は。大人の、悪気はないが心ない言動によって子どもの世界が一瞬にして崩落する様相を如実に描き出していて、嘆息することしきりである。
すぐれた絵本は、地上1.5メートルのあたりをさまよっている大人の意識を、子どもに向かわせるのである。
「すぐれた」といったのは、大人世界と子ども世界との越境をさせるということである。しかしそれを可能にするのは、自身がすでに越境している作者のみである。
駒子さんのように子どもの心に肉薄できない私であるが、絵と言葉、装丁、その総体が詩作品であるこの本が与える何かを何とか言葉にしたいと思う。そして駄文を連ねることになるのであるが、もしかしたら「かそけき」という言葉がふさわしいかもしれない。