はかない?

蛸壺やはかなき夢を夏の月 松尾芭蕉
海に沈められた蛸壺で蛸たちが、朝には引き上げられ食われる運命にあることも知らず、安眠をむさぼっている。もちろん蛸の話ではない。明日をも知らぬわが身なのに明日があることを疑いもしないという、夢を見ているに等しい人間の一生を言っているのである。そして、その命のあり方を「はかない」と看破しているのである。
でも、救いはある。「夏の月」である。何かの拍子に、月光が蛸壺に射す。月光が蛸を変質させる。
月はさとりの象徴であるから、蛸壺から解脱して自由になるということか。否。はかなさを知らぬ蛸から、はかなさを知る蛸へ転換するのである。はかなさを知った時、はかなさを一歩抜けている。
ひるがえって、我々は我が身のはかなさをリアルに感じているだろうか。感じてないなら、月には出会えてないってことなのである。

註:先日の「ミミズ先生」の続編のような拙稿は、日本海新聞の小エッセイ「境港小話」に寄せて書かれたものである。今回の芭蕉の句については、大橋良介先生の「異端と正統」(講座『日本文学と仏教』)という卓抜な芭蕉論に取り上げられている。この論文にぼくは多大な影響を受けている。是非、お読みください。