宇宙の境港

名月や池をめぐりて夜もすがら 松尾芭蕉
名月を十分堪能できる境港の今年であった。
神仏を作り話だと冷笑する感性に、永遠なるものは感受され難い。見失ったことさえ気づかなくさせるのは、自己肯定感などの前向き自己謳歌主義。せめて悠久なるものに触れて自分をたださないと、人間自体おかしくなる。
月見は月を見るだけではない。「池をめぐる」のだから池に映る月を見ていることがわかる。月光の照らす世界をたのしむのだ。しかも一晩中。ふだんの「現実」が溶けだす。
境港で見る月は、芭蕉の見た月、アラブの国の人が見る月と、同じ月である。
境港なんて私には興味がない。宇宙の一局所としての境港には興味がある。宇宙は四季としてみずからを現わす。
時空を超えたたった一つの月が、池にうつり、私のお猪口にも宿り、境港をも照らすのである。
九月一九日の境港はどんなだったろうか。