「いのち」に死をお見舞いする

うちは精肉店

うちは精肉店

『うちは精肉店』という、牛を屠る写真集があり、それが映画化されたようである。いい本である。ただ、そこに、いのちを食べていのちをつないでいる式のことが書かれている。残念である。当然のことだし、しかも写真付きで説得力やリアリティーや迫力までそなえている。言うべきところで言っているので、空っぽの言辞ではない。ただ、「いただきますというのはいのちをいただきますということだ」とか、「いのちをいただいていのちが生かされている」とかいうのは、どうも危なげも肉感もないスローガンになってしまっている。
そこで、宮崎学さんの捉え方はえぐるものがある。
「死を食べて生きている」というのだ。
死を食べる―アニマルアイズ・動物の目で環境を見る〈2〉

死を食べる―アニマルアイズ・動物の目で環境を見る〈2〉

保護者さんが『死を食べる』という本を貸してくれた。ずっと読みたかった本である。この人の『死』という、動物の死体が朽ちていく様を撮った写真集と主旨は同じである。私はこの本を大学の講義で九相死絵巻とならんで「死」を語る時よく使った。死という境界線があると思っている現代人にはモーレツなハンマーになる、いい本である。
死―宮崎学写真集

死―宮崎学写真集

「死を食べている」というが、厳密に言うと死体を食べているのであって、死を食べているのではない。死体は死ではないというのは、「有るもの」は「有る」とは違うというのと同様であって、死は食べられない。こんな批判はいくらもできるが、そういうことを差し引いて、「死を食べている」という規定は刃物のようである。ことがらとしては「いのちを食べている」と同じことなのであるが、「死を食べる」と言ったとたん見える景色が違ってくる。