娘の、終わりという節

終わりの季節である。娘が小学校を卒業した。そして、低学年の頃から習っていたピアノをやめる。終わりの時は勝手にでもおとづれるのであるが、そういう「終わり」に心がついて行っているかどうか。終わりに際してどんなことが経験されるのか。かの娘は終わりの意識が薄い。そこが課題であると思われる。
 鳥取県の幼児教育振興プログラムの策定委員になった時、県の幼児期の目標を考えることが課せられていて、「遊びきる子ども」となった。そういう機会に遊びきるとはどういうことかと何かと考えた。「切る」とは終わりを含む。遊びの終わりとはお片づけということもあるであろうが、壊すということが完成とあかしとしての終わりであるようにも思えた。真の無限とは終わりのない無際限とは違い、終わりをみずからのうちにもつことだと言ったのはヘーゲルだったと思う。
何を言っても「あたりまえだがん」(「だがん」はこちらの方言で、「でしょ」ほどの語尾)か「ンなわけないがん」しか言わないような年ごろの娘であるが、発表会前日の練習に送って行く時たずねた。「最後の練習だよ。何んか思わん?何か心が動かん?」娘は応える、「何も。」聞き返す私、「え、何も動かんの?心がかちかちだなあ。」すかさず娘の反応、「いや、心が汚いないんだよ。」これには驚いた。驚きながらその心が知りたくて「へえ、自分でそう思うの?」聞いてみる。すると「なわけないがん。」