宗教か自然か

大寺を包みてわめく木の芽かな 高浜虚子
桜の花びらを掃く日々がぱたりと終わるものさびしさを感じる時は木の芽時でもある。新緑が花びらを押しだすように散らすようでもある。しかし、この句の木の芽のいきおいはそれどころではない。「わめく」のである。新緑に「毒素」を見る鬱屈して瑞々しい詩人の感性は共感に難くない。しかし、この木の芽は毒素どころではない。大きな寺を包むほどである。大寺はもしかしたら、歴史を生き抜いてきた伝統ある読経の声が響いているかもしれない。お経は長い伝統さえも超える宇宙の真理が言語化されたもののはずである。それを包むとはいかなることか。
 宗教と自然というテーマは、両者をつなぐ「と」の字を等号や不等号で表すことができる。日本人の自然観は、人間の信者集団である宗教より自然の方が大きいと見るであろう。イスラームキリスト教では、宗教が自然を超えていると見るであろう。
しかし一番大切なのは、自然とか宗教とかいう抽象概念ではなく、直接経験において、わが身の来し方行く末に木の芽の生命力がどのように食い込んでくるのかを直観的に見定めることである。