かんざしのお肉

末の娘の名前は「言」と書いて「ことは」という。名前の深遠な由緒は、話すと長くなるので機会を改める。
いづれにせよ、言葉こそ大事だと、名付けた当時も今も、思っている。
言葉という名を身に帯びて産まれてきた娘は、言葉が遅かった。彼女の祖父はそれをかなり心配していたが、私は全く気にならなかった。なぜなら、下の二人の娘は双子で、二人は赤ちゃんの頃から鏡のように映し合いながらこねこねこねこねと他の人にはわからないコミュニケーションをとっていたので、人間の(大人の)言葉を習得する必要性が薄く、それで発語が遅かった。そう思っているからである。言語が「遅い」としてもそのベースとなるコミュニケーションはできているという理由で心配になはならなかったのである。
小学校低学年の頃には、あんまりしっかりとものが言えない娘に歯がゆくなった先生に、「ことは」なんだからちゃんと言いなさいと言われてしまうほどだった。五年生になった今でもおぼこく、ボキャブラリーは少なく、おしゃべりは好きだけど筋道だって話したり論理性を持って話を組み立てたりするのが下手である。。
先日も夕食の食卓で、何かのことの名前を思い出せずにいて、それをこう呼んだ。
かんざしのお肉。
聞いたこともないその単語がおかしくて、何のことか見当もつかなかったが、それはなんと焼き鳥のことであった。それがわかっておかしさは倍増し、みなで腹を抱えて笑った。