野分リアリティー

  猪もともに吹かるる野分かな  松尾芭蕉
台風、大雨、洪水、さまざまな形で自然が猛威をふるった。ひとは荒ぶる自然におそれを抱く。しかし敬う感じが同時にあるだろうか。自然を大切にというのは抽象的な感傷にすぎず、命を恵み与え命を奪う、いづれも同じ自然である。生殺与奪が足元からリアルに立ち昇った時、畏敬となる。
「たいふう」は何のリアリティーも含まない。タイフーンという外来語の音写にすぎないので、台風という語は記号にすぎない。野分はリアリティー満載である。言葉が実景を喚起する。猪が吹き飛ばされるほどの強風でもあろうし、野を分けて進む猪の姿も想起される。
台風は号数がつけられ進路が分析されてしまう風の影である。野分という言葉は見えないものを指し示す。風というものがそもそも見えないものだということをはっきりと言葉に象っている。その言霊が「又三郎」や「猫バス」という可視化の表現を産む。野原や田んぼを分けて進む、風とよばれる透明なものの正体を何とか形にもたらし、見えるようにしたい、その衝動が芸術である。