うとうと解脱

うとうとと生死の外や日向ぼこ  村上鬼城
 日向ぼっこの心地よさに眠ってしまうかのように、安らかに死んで行けたらいいなという感傷の句と受けとめたら的外れである。眠るように死ねたとしても、それは死んだだけであって「生死の外」ではない。
この場合の「生死」は「せいし」ではなく「しょうじ」という仏教読みであろう。生きるか死ぬかではなく、生老病死という生まれて死ぬまでの全体のことで、それは苦であり、迷いであるといわれる。迷いとは生まれては死ぬということを際限なく繰り返し、かくして生死なんて丸ごと無意味だということである。何回やっても同じこと、その無意味さを輪廻と表現した。なので、苦しもうが安らかだろうが死んだくらいで「生死の外」には出られない。
しかし例えば病を得て死が日々リアルになってきた時、生と死は限りなく一枚に近くなり、裏表が透明化してくると、生と死の区別は超えられている。その厳しさからもたらされる安らぎは日向ぼっこに似ているかもしれない。