棒倒し民主主義

民主主義という翻訳はよくない。デモクラシーは民主政治であって、「主義」などと曖昧なことを言うから野放図に広がって薄まり、本質を見失うのである。僕は大学の時の先生にこのことを学んだ。しかるべき領域の言葉であり事柄であるという制約を確認しておけば錦の御旗のなることはない。この、効率の悪いシステムは、最高ではないが不可避である。
安保法案が参議院特別委員会で「可決」されたシーンをテレビで見られた方は多いと思う。僕でさえ見た。
中継で見ていて唖然としたとともに、運動会の競技で以前は定番だった棒倒しを思い出していた。賛成、反対については、(僕は反対だが)さまざまな見方があるから、色々あって当然である。でも、それとは別にあの手続きに関しては非道く醜いものであり、賛成反対いずれの人にとっても問題にすべき点であり恥ずべき事である。
民主政治はものごとを決める手続き自体のことでもあるのに、民主主義などというから、法案の内容の可否におとらず手続き自体が重要であるという認識が甘くなるのだ。で、たとえば、あの騒動の直後、自民党の佐藤氏にインタビューする人はあのやり方の是非を突っ込んで聞かなかったので、いつも通りの法案の正当化を語らせただけである。
議長の周りを自民党議員という肩書きのガードマンがしっかりかため誰も入り込めない要塞を築き、議長の声が場内にいる人に届かない状態にして、人垣に埋もれたときのために用意周到にペンライトまで用意して、そばにいる佐藤氏だけが議長の声を聞き取り、手を上げる合図で起立して、可決。こんな手続きなので、議場にいる委員さえ何の議事か聞こえず、何が行われているかわからない。リアルタイムの中継時も何が行われているかわからず、議長がもみくちゃの退出をしてしばらくして「ニュース速報」という字幕で可決が伝えられるという始末。議事録すらとれてない。そもそもあんな事で有効なのか。この手続きを見て「民主的」と言う人がいたらお会いしたいものだ。世界中にこの格闘技民主主義が発信されてしまった。
議長はその後マイクを向けられて「強行採決ではない」と言った。あれを強行採決でないとしたら、何というのか。議会ジャックか。

選挙権が18歳まで降りてくるに当たって、主権者になるための教育が、鳥取でも行われている。それには是非、あの参議院の委員会での「採決」ビデオを教材に使ったらよい。その現実を見て、あそこで暴れている人はみな選挙で当選した国民の代表であること、国会と呼ばれるそこは、腕力ではなく言葉を使って話し合い、国の大事なことを決める場所であることを、学んだらよい。それを見て、この国には民主政治などないと思い知って、投票なんてあほらしい、無駄だ、と思うのか、まっとうな民主政治を目指そうと心が高ぶるのか、それは、現実から学ぶのであるから、いづれであってもよい。
あのもんちゃくの数日後、かの連想は当然だったことがわかった。佐藤氏がテレビ番組であのときの作戦を語るときに学生時代に体験した棒倒しを想定していたことを語っていたのだ。あの非道で無法なやり口を平然とテレビで言うあたりの反省のなさ、厚顔無恥は絶望的だ。もちろん民主主義とは手続きの一つであるということを自覚してない人の一人であることは疑いようがなく、それどころか民主主義などどうでもいいというのが本音の人かもしれない。
これからの国会議員はラグビー部や格闘家がなるのがよい。国会は格闘技場になるのが日本の「民主主義」のこれからだろう。